さて、ここまでおつきあいいただいた読者は、ようやく後期クイーン問題入門の扉を叩いたことになる。
 前述の通り、各論者は自著にて他のクイーン作品にも触れている。偽の手がかりという難題に苦悩したクイーンが『シャム双子の謎』でなにを達成したのか法月・笠井は緻密に検証しているし、飯城は『悪の起源』(1951年)など後期の作品もあげて『ギリシア棺の謎』と比較している。
 後期クイーン問題が新本格ムーブメントにおよぼした影響に興味があるならば諸岡卓真『現代本格ミステリの研究』があるし、小森健太朗『探偵小説の論理学』(2007年、南雲堂)はラッセル論理学からミステリにおける論理を考察している。いや、なによりも本格ミステリの歴史を彩る数々の名作があなたに頭痛を覚えさせようと手ぐすねひいて待ち構えていることだろう。

 考察の終わりでは否定的な修飾ばかり連ねてしまったが、この泥沼が決して本格ミステリというジャンルを暗闇へ追いやったわけではないことを言い添えておきたい。むしろ、後期クイーン問題は本格ミステリに、現実という概念の複雑多様さを精緻に描く表現力を与えたのではないか。自由を誇り軽やかに舞う他の文学領域では決して為しえなかったことを、自ら十字架を背負ったこの奇妙な文学だけが達成したのではないか。
 九〇年代の新本格ムーブメントは、いや、その前身である「幻影城」出身作家の作品群にしても、幻想をたくみに描いてきた。それは現実と幻想を二項対立とみなす素朴な幻想観を超え、ときとして現実こそが幻想であり幻想こそが現実であるかのような、新しい幻想観に裏打ちされていた。超自然を採りいれた作品はもちろん、採りいれなかった作品ですら観念によって異世界を構築し、日常の狭間に潜む幽冥の世界を覗きこみ、昨日と同じはずの明日が思いがけず世界の果てや壮大な歴史に接続されるセンス・オブ・ワンダーを描いてきた。

 現実とは、私たちが当然のものとして思い込んでいる現実概念よりも、遙かに広い。人間を描くことは、私たちが当然のものとして思い込んでいる等身大の人間を描くことだけではない。本格ミステリはすました顔で我こそ現実中の現実でございと威張るようでいて、いつのまにか蓋然性と単純性の目盛りをあってはならぬ方向へずらし、虚構と現実の境界線を軽やかに越える鮮やかな魔法をみせてきた。
 現実という概念は変わり続ける。物語内真実の共有という契約に縛された本格ミステリは、絶えず自身の姿を改め続けなければならない宿業を背負っている。冒頭に述べた言葉をここに繰り返そう。虚構と現実の境界線という命題はあまりに古く、そして常に新しい。願わくば拙稿が、受け継がれてきた遺産を更に先へと進めるための、小さな踏み石となることを望む。