12/18(土)限界小説研究会[編]『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ』(南雲堂)刊行記念トークショー「世界内戦とロスト・ジェネレーション」に行ってきました。場所は青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山。午後六時開場、六時半開始、八時頃終了。
 以下、思い込みと自分勝手な解釈の激しい不正確なレポート。適当に足したり引いたり順番変えたりしてるので注意。エー、ぶっちゃけ私の教養は「シンサヨクってなに?」レベルでございます。考えるな! 感じるんだ!去年と同じこと言ってるぞ!

「世界内戦」とは?

 まずはジーンズ姿の司会者、藤田直哉が一人で壇上へ。90年代後半からゼロ年代前半にかけて「セカイ系」と呼ばれる作品が流行した。そこで描かれる戦争は敵の正体や思想が不明確かつ曖昧模糊としていて、主人公たちは自分がなにに巻きこまれているのか状況さえわからないなかで戦っていた。しかしゼロ年代後半から現在にかけて、状況は変わりつつある。その背景には新しい戦争観、すなわち「世界内戦」があるのではないか。
 てな感じの前口上が唱えられた後で、拍手に包まれつつ笠井潔、白井聡、鈴木英生が登場。おお、四人ともメガネだ!
 藤田直哉から人物紹介がされる。笠井潔は小説家で文芸評論家かつ、新左翼として実際に当時の学生運動とかに参加していた世代。白井聡はレーニン学者。鈴木英生はロスト・ジェネレーション、すなわちバブル崩壊後の就職氷河期で辛酸を味わい社会の底辺で苦しんでいる世代に関心を持ち、小林多喜二『蟹工船』ブームの立役者にもなった人とのこと。
 左、左、左、映画オタクの四人で、現代のこの世知辛い社会をどうすればよくできるか考えましょ~という趣旨。

 まず、そもそも「世界内戦」ってなによ、ということを笠井潔から説明。私、生でぬるぬる動く笠井センセーを目にするの初めてだったんですが、ちょっと嗄れた声でとてもゆったりしゃべるのね。
 これまでの戦争観ってのは、19世紀は「国民戦争」、20世紀は「世界戦争」だった。けれど、2001年9月11日に世界貿易センタービル・ツインタワーなどへ、ハイジャックされた旅客機が激突させられた大規模同時テロ攻撃、いわゆる「9・11事件」以降から戦争というもののありかたが変わってしまったのだという。
 19世紀の「国民戦争」は、国家主権による合法的な武力行使だった。例えば領土問題が外交努力でも解決できない場合、国家の上位にある調停組織は存在しないので、武力衝突こそが最終解決手段となる。国を代表する正規軍が、民間人を巻き添えにすることなく、戦時国際法にのっとってチャンチャンバラバラするのが「国民戦争」だった。
 けれど20世紀、第一次世界大戦は戦争のあり方を変えてしまった。本来は巻き添えになるはずのなかった民間人が、国を挙げての総力体勢を実現するため協力が必要とされ、空襲で爆撃に遭うといった形で直接被害さえ受けるようになった。戦車、戦闘機、機関銃。大量殺戮兵器の発達は戦場から英雄の姿を消し、ただひたすら無名の死者ばかりを大量生産し続けた。原子爆弾のような、敵国民の命を最後の一人まで奪おうとするかのような苛烈さは19世紀の「国民戦争」には無かったものだった。
 さて、それじゃ21世紀、9・11事件で登場した「世界内戦」とはなにか? 「国民戦争」「世界戦争」は国家主権同士の戦いだった。けれど、「世界内戦」は違う。9・11事件においてテロ事件の首謀者とみなされたアルカイダは国家ではないにもかかわらず、当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは戦争とみなした。グァンタナモ米軍基地では、9・11事件に端を欲するアフガニスタン紛争などでテロリストとして拘束された人々が拷問に等しい扱いを受けた。後方を支える民間軍事会社も、正規軍ではないため戦時国際法が適用されるべきか曖昧になっている。かつての世界大戦では国同士の同盟関係とか明確だったけれど、グローバル化が進んだ現在は不明確になっている。
 こんなふうに、国と国とがルールにのっとって戦うのではなく、あらゆる組織や個人までもが戦争行為になんらかの形で関わり、脅威にさらされ、公的/私的の明確な境界もなく残虐行為に荷担してしまう。ある意味では20世紀の「世界戦争」よりも21世紀の「世界内戦」は苛烈さを増している。そんな、あらゆる人々が自分だけ無関係という立場にはいられない緊張状態が、実際の戦争ではなく社会の雰囲気にも反映され、たとえ戦争を主題としていなくともサブカルチャー作品に影を落としているのだよ――てのが評論集『サブカルチャー戦争』の内容なのです。

国家主権の解体は、ロスト・ジェネレーションたちの革命につながるか?

 ここで藤田直哉から補足。世界内戦がロスト・ジェネレーションとどう関係してくるのか。年功序列賃金制度が崩壊し、バブル崩壊から続く景気の長期低迷により「頑張って勉強して良い大学に入れば、安定した一生を送れる」なんて保証は無くなってしまった。格差が広がるなかで先行きに不安を感じるロスト・ジェネレーションの二十代、三十代の若者たちが、まさにこの「世界内戦」状態にあるんですよーということらしい。
 レーニン学者の白井聡にバトンが渡される。2010年4月、匿名で機密情報を公開できる内部告発サイト、ウィキリークスを通じて、アメリカ軍の攻撃ヘリがイラクの一般市民を狙撃した映像が漏洩した。2010年11月、領有権問題が起きている尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件の映像がYouTubeに投稿され、第5管区海上保安本部の海上保安官が「自分が映像を流出させた」と上司に名乗りでた。さっき9・11事件からは国家が戦争の主体ではなくなってしまったと説明したけれど、これらは国家主権の解体を象徴する事件だった。本来なら国家機密は国家の中枢にいる少数の者が機密性を判断するものだったのに、近年は情報共有のしかたが変わってきたこと、ネットの発達で個人が“正義”を遂行できる環境が整ってきたことが事態を変えてしまった。

 では、こういう事態が社会を良い方向へ変える力となるだろうか? 1917年、ロシア革命を成功させたボリシェヴィキは国家機密を暴露した。ボリシェヴィキを指導していたレーニンは新聞などのメディアが労働者たちの悲惨な境遇を報道すれば革命につながると考えていたという。けれど、ロシア革命に共産主義への脅威を感じた各国は対ソ干渉戦争をしかけ、ソヴィエト政府はやがて秘密主義を徹底するようになっていった。ウィキリークスや中国漁船衝突事件映像の流出がなくとも、そのようなことが起きていること自体は以前から噂されていたことだった。こういった機密の暴露が革命や社会運動につながるとは限らないのではないか。
 ここで司会の藤田直哉から、必ずしもそうではないと指摘。湾岸戦争では広告代理店が関わってイラクへの反感を煽っていた。現代の情報環境は、革命につながるかもしれないし、つながらないかもしれない。

 最後の一人、鈴木英生にバトンが渡される。ロスト・ジェネレーションの若者たちは悲惨な境遇にあり、デモをすると1000人くらい集まることもあるが、ネット右翼の勢いと比べると精彩に欠ける。国家自体がガタついているからといって、実存的不安を抱えている若者たちはかつての新左翼みたいにデモに参加する元気なんて無い。経済的貧困は努力が不足しているせいだと自己責任ばかりが問われてしまう状況だってのに、連体することで世の中の状況を変えられるだなんて信じることはできない。

日本の若者たちはなにに革命への情熱をスポイルされたのか?

 笠井潔から、若者の実存的不安と革命との関係について説明。かつて、ショーペンハウエルのように哲学者が実存的不安を論じることはあったけれど、若者の普遍的な悩みなどではなかった。第一次世界大戦後の1920年代頃から、真空のごとく虚ろな主体が過激な思想、共産主義やアナーキズム、アヴァンギャルド芸術を吸いこむことが起き始めた。それは映画『理由無き反抗』のジェームズ・ディーンに代表される後続のゴールデン・エイジでも同じで、自分がなぜ苛立っているのかさえもわからずに暴力やエロスへと走った。
 日本でもそれは同じ。村上春樹はある小説で登場人物に学生運動を馬鹿にさせているが、その人物はラストで自分がどこにいるのかわからない不安を感じる。その不安こそが、学生運動に参加した若者たちを突き動かしていたものだったというのに。
 けれど、どうも海外にはない日本だけの特殊事情があるんじゃないかと思う。例えば2008年9月の名門投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻が端緒となったいわゆるリーマン・ショックを背景として、予算削減を不満に感じ大学での学生運動は欧米だけではなくアジアでも盛んになっている。それなのに、日本だけは平穏なまま。このような、若者たちの政治活動への無関心は、1980年代頃から始まったように思う。

 ここで藤田直哉が補足。80年代頃からサブカルチャー、ポップカルチャーが盛んになった。70年代に政治活動で挫折した若者たちは、オタクとなることで実存的不安を解消されてしまったのではないか。
 笠井潔は、例として怪獣映画の代名詞的存在、ゴジラをあげる。評論家、川本三郎はゴジラが東南アジアから必ず日本だけを襲う点を指摘し、太平洋戦争で無念の死を遂げた日本兵の怨霊として解釈できると指摘した。しかし1962年公開の『キングコング対ゴジラ』の辺りから、ゴジラはまったく怖い存在にならなくなった。戦後すぐは生き残った者達に恥と罪の意識があったが、それも薄れていく。加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』ではゴジラに続いて、株式会社サンリオのキャラクター、ハロー・キティに日本人の精神性の変化を見る。口が無く自己主張のできないキティは日本の「可愛い」文化として海外に広く受け容れられていく。日本のマンガ・アニメ文化は中国、韓国でも隆盛を迎えつつある。戦後60年かけて到達したのがここだということに複雑な感情を覚える。
 革命につながるはずの実存的不安は、二次元美少女に癒されましたとさ☆ めでたしめでたし♪

繋がりの社会性は革命への情熱を呼び覚ますのか?

 さて、オタク文化にスポイルされちゃった草食系男子たちに、連体することで状況を変えられると信じさせるにはどうすればいいか。そもそも、現代の若者たちのつながり、コミュニケーションとはどのようなものなのか。
 鈴木英生は、新左翼だった若者たちは身体性を通じてつながりを実感していたという。その頃のデモはスクラムを組み、おたがいに身体をぶつけあった。今の若者は情報環境、2chやオンラインゲームのようにネットを通じたつながりはあっても、身体性に欠けている。
 ある草の根団体は、朝鮮学校がスパイを養成していると疑い抗議のため押しかけたが、生徒の父親たちが身体を張って防いだ。その経験から、団体の参加者は考えを改めたという。身体性は人間の考えを変える力を持っている。「そうですよね、ジャッキー・チェンは神!」と、どこからか声。

 白井聡もまた、情報環境を中心とした現代的なコミュニケーションに疑念を抱いているという。人間中心主義を捨て「物質の蜂起」を目指すべきだ。
 例として、アイドルグループAKB48の人気競争をあげる。総勢48名のメンバーのなかで誰が一番なのか、商品を買わせる、投票させるといったインタラクティブな仕組みで数値化し、競争させている。なんと不愉快なやりかただろう。「いいじゃないですか!」と、どこからか声。
 なにが不愉快かというと、ここでは誰が一番なのかを人間の判断のみで決めている。けれど、例えば“美”を評価するとき、それは人間が話しあって多数決で決めるものではない。美の評価は人と物とが向きあうとき現れてくるはずだ。ドイツの哲学者、イマヌエル・カントはそれを超越性と呼んだ。
 経済学者ケインズは株式投資理論での考え方の例として美人投票をあげた。誰が美人なのかみんなで投票し、一位を予測できた人には抽選でプレゼントを与える。このような仕組みでは、個人が誰を美人と思ったかではなく、株式投資のように「私はこの人が美人だと思う(この株の値段が上がると思う)が、みんなが美人だと思って投票するのはこういう人だろう」ということを個々人が考えてしまう。超越性ではなく、コミュニケーションがいちばんを決めてしまう。

 ここで藤田直哉が、2009年に放映された深夜アニメ「東のエデン」を採りあげる。主人公、滝沢はコミュニケーション能力が高く、二万人のニートを連携させ、ミサイルに狙われた日本を守る。ここでは国家抜きに個人が戦争状態を引き起こす世界内戦状態で、情報環境を通じたつながりによって連帯したロスト・ジェネレーションたちが社会を変える姿を描いている。しかし、物語としてのリアリティには欠けている。
 現実的には、どんな行動が考えられるだろう。じゃあ、ラジコンにカメラと爆弾を搭載して、家にいながらにしてゲーム感覚でテロ行為をできるようにしちゃどうですかね!これなら身体性も物質の蜂起もなしで敢行できますよ!金かかるけど。
 文化人類学者のアン・アリスンは『菊とポケモン』で、日本発のマンガ・アニメが欧米でどのように受け容れられたか説明している。ある意味では日本は最先端にあり、村上春樹とともにシニシズムを世界へ広めようとしているのかもしれない。白井聡も、日本でなぜアルカイダによるテロが起きなかったのかと不思議がる。

 と、このあたりでタイムリミット、質疑応答。「現在ロスト・ジェネレーションの若者は大変な苦労をしているが、新左翼の人々はどうやって生き延びたのでしょうか?」
 新左翼だった笠井潔が回答。365日、運動を続けて逮捕歴さえあるような全体の一割くらいの人たちは、フリーターになるか家業を継ぐか、底辺で働くしかなかった。あまり熱心でも無かった残り九割は、さっさと運動から離れて普通のサラリーマンになった。経済成長を続けていた当時と比べると、いまのロスト・ジェネレーションはもっと厳しい状況にある。
 お先真っ暗なまま終了……。

感想

 まとめると、こんな感じ。「いまナウいのは世界内戦だよ! 国が弱ってるいまが革命のチャンスだよ!」→「だめだめ、ロスジェネのやつらに連体なんかできっこないす」→「ネットを通じたつながりならあるじゃん! それ活用してどうにかならへん?」→「どうだろなー。できるかなー。なんかもう、むしろオタクのほうが最先端なのかもなー」
 結論。みんなでイカ娘に侵略されよう。

 『サブカルチャー戦争』を読んだときはなんというか、「世界内戦」って宇野常寛『ゼロ年代の想像力』で指摘されていた「サバイヴ感」だの「決断主義」だのとなにが違うねんと思った。「世界内戦」という新しい戦争観が現れているのはよくわかったけれど、それが戦争描写のない文芸作品にまでなぜ影響するのかよくわからなかった。
 それが今回のトークショーに参加して、なんとなく腑に落ちた気がする。

 現代の情報環境(ケータイ、2ch、SNS、Twitter……)が中心となった人々のつながりでは、ひとりひとりの個人が全体性に配慮し、空気を読みながら戦う必要がある。決断主義はもうちょっと我が強いというか、自分の正義を信じて犠牲を厭わない弱肉強食の考えだった。でも、世界内戦の影響を受けた作品では、必ずしも自分の正義を信じているわけではなく、周囲との関係性に配慮し相対性を意識しながら、システム/環境そのものの変革を目指すというかなんというか。
 そう考えると『サブカルチャー戦争』に所収の、蔓葉信博「至道流星と情報戦」における経済をテーマにした小説とか、海老原豊「空気の戦場」におけるスクールカーストをテーマにした小説の変遷とかがなんとなくうなずけるように思えてくる。これらは直接的には戦争と関係しないけれど、自分が最善のやり方を知っている(知っていると思いこんでいたら、それは自分こそ正義と盲進する決断主義)とは限らないことを前提に、周囲との調停/衝突を繰り返し、自分自身の成長と環境そのものの変革を目指している……んじゃないかなぁと。
 んー、だからまあ、やっぱりちょっと「世界内戦」だけですべてを説明するのは難しい気がする。その影響は確かにあるし、特に戦争をテーマにした作品には有効なんだけど、戦争と直接関わらない作品は情報環境とか経済情勢とかもあわせて考えるべきなんじゃないかなー。

 そういえば、書いている間に思いついたけれど『まおゆう』も世界内戦っぽいよねえ。あれはまさに19世紀「国民戦争」から20世紀「世界戦争」への変化を描いているはずなんだけど、でも国家や軍部だけではなく経済が物語を駆動する大きな素因になっていること、多くの登場人物ひとりひとりが主体的意識をもって戦闘に参加していること、なにより魔王と勇者の最終目標が世界内戦の考え方にぴったりあてはまる。
 とかいって、まだ私、10スレッド目までしか読んでないんだけどね!