《解説》

CRITICA第4号

 二〇〇九年度 探偵小説評論賞に応募した「探偵達の新戦略」が奨励作を受賞しました。ここに、試供品としてその第二章までを公開します。
 本稿の全文は探偵小説研究会編著「CRITICA」第4号に掲載されます。「CRITICA」の詳細、入手方法については以下のリンク先を参照してください。

探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/

「CRITICA」:探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/critica.htm

 では「探偵達の新戦略」とはどのような内容か。章構成は以下の通りです。

  • 第一章 はじめに
  • 第二章 論理性と蓋然性
  • 第三章 ひぐらしのなく頃に
  • 第四章 涼宮ハルヒの消失
  • 第五章 夏期限定トロピカルパフェ事件
  • 第六章 ロジックベースからルールベースへ
  • 第七章 ミステリとベースシフト
  • 第八章 キャラクター文学とベースシフト
  • 第九章 ミステリとして読むということ

 ミステリ作品にとって根幹の「推理」という行為そのものについて、蓋然性の側面から見直します(第二章)。そして、『ひぐらしのなく頃に』『涼宮ハルヒの消失』『夏期限定トロピカルパフェ事件』の三作品について分析し(第三章~第五章)、ある共通点を示します(第六章)。
 その共通点が三作品だけの突然変異ではなく、国内ミステリがたどってきた大きな変化の最先端であることを、主に新本格ムーブメント以降の作品をあげて示します(第七章)。
 視点を変え、今度はミステリというジャンルの枠を越えて、新戦略の意味を探ります。自然主義文学、キャラクター文学、ミステリの関係を整理し、キャラクター文学で人間を描く手法にミステリの変化が関わっていることを指摘します(第八章)。
 最後に、ここまでの論を踏まえて、価値観の多様化した時代におけるミステリ評論のありかたを探ります(第九章)。

 以下「探偵達の新戦略」の第二章までを公開します。
 『ひぐらしのなく頃に』の重要な真相に触れている箇所を、背景と文字の色を同じにすることで隠しています。その箇所を読むには文章をマウスで選択するかボタンを押して下さい。

第一章 はじめに

 真相当て。それはマイナーな愉しみだ。
 ミステリという後ろめたい娯楽が、いかにエンターテイメントとして幅広い読者を獲得しているか、今更ここに具体例を挙げるまでもないだろう。しかし、読み手自身に謎解きをうながす趣向となると、愉しむ者は少数派だ。
 読者への挑戦。それは作者から読者への一方的な宣告であり、熱心な愛好家の集まりでのささやかな興趣であり、新聞や雑誌で思いだされたように散発される小企画に過ぎない。規模としては、七作目『安楽椅子探偵と忘却の岬』が全国配信された、綾辻行人・有栖川有栖が原作を担当する〈安楽椅子探偵〉シリーズ(朝日放送)が最大だろう。
 しかしサウンドノベル『ひぐらしのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に解』(07th Expansion、以下『ひぐらし』)は、真相当てという試みに変化を与えた。同人ゲームという性質やメディアミックスの展開からしても、プレイヤーの大半は十代から三十代の若い世代と推測される。提示された数々の謎に魅了された若者達は公式サイト*1の掲示板や自身のサイトで推理を披露し議論を交わした。あくまで参考材料にしかならないが、二〇〇九年五月末現在サーチエンジンGoogleで「推理|考察 "安楽椅子探偵"」を検索した結果件数は一万三千二百件、それに対し「推理|考察 "ひぐらしのなく頃に"」の検索結果件数は三十万七千件だった。
 しかし、謎解き編をプレイしたミステリファンは、大きな失望を味わうことになった。ここでは代表して前島賢の文章を引こう。

 だが、『ひぐらし』をヒット作へと押し上げた「分売形式」は、一方で、その作品としての完成度を低め、後半においてミステリとしての破綻を招く直接の原因ともなってしまった。たとえば、序盤の展開を見る限り『ひぐらし』は、どうにも書きながら真相を構築していったのは明らかで、途中で真犯人とされる人物が変わったと思われる箇所がある。また、話数を重ねるごとに村で起こる事件の規模が大きくなり、第三話「祟殺し編」ではついに毒ガスによって村人全員が死亡するまでに至る「謎のインフレーション」とでも言うべき展開は、実際、先の展開のことなど全く考えずにインパクト重視で話を展開させたあげく破綻を迎えるという、週間連載マンガにありがちな事態を思わせる。そして、解決の段に至って『ひぐらし』は、架空の薬物や国家レベルの秘密結社などの「禁じ手」を連発した挙げ句、そもそもミステリであることすら放棄してしまう。当初に構想していたと思われる出題編(第一話から第四話)における謎の提示と解答編(第五話~第八話)における論理的な解決、というミステリとしての構成は(これまた週間連載マンガにありがちな)「路線変更」によって一瞬で形骸化し、『ひぐらし』はその後半において、秘密結社との戦いを通して「信じて仲間と連帯することの大切さ」を描く一大冒険活劇へと変貌してしまうのだ。

 では『ひぐらし』は、不完全だったのか。ミステリという歴史あるジャンルへの教養不足が招いた失敗作だったのか。素人作家にありがちな、底の浅い駄作に過ぎなかったのか。
 私は、本稿で次のことを示したいと思う。

一、戦後から現代にかけて、国内ミステリは謎解きのありかたに緩やかな、しかし大きな変化が起きている。
二、『ひぐらし』を含む近年の作品は、その変化の先頭にある。
三、不備のように感じられる『ひぐらし』の特徴は、その変化と密接に関係している。

 では、その変化――探偵たちの新戦略とは、なにか。
 それを理解するには、基礎的な話から始めなければならない。私たちが永く魅了され続けている、あの神秘的とさえ言える技法。すなわち、推理という行為について。

第二章 論理性と蓋然性

 一九九八年二月、ワイオミング州ジレットにて、ドナルド・シェルは妻と娘、そして九ヶ月だった孫娘の三人を銃で殺害し、自殺した。
 犯行の四十八時間前、シェルは鬱病の治療薬、パキシルを処方されていた。これが衝動的行為の引き金になったとして、シェルの息子はパキシルの製造元であるスミスクライン・ビーチャム社を訴えた。
 この裁判において、被告側の弁護士が興味深い主張をしている。

 スミスクラインの書類を見ると、研究者や社員が、アカシジアや幻覚も含めて臨床試験で出てきた反応を、明確にパキシルによって引き起こされたものと分類しているのに、同社は個々の症例で因果関係を確立するのは不可能だと主張していた――因果関係の確立は無作為化対照試験によってのみ可能だというのだ。

 抗鬱薬の影響で幻覚や衝動的行為が生じる可能性は認める。しかし、犯人が薬の影響で殺人や自殺をしたとは認められない。なぜなら事件は実験室のような理想的環境で起きたわけではなく、データが不足していて薬と殺人との因果関係を立証できないから――あなたは、この主張に納得できるだろうか。
 秋の夕暮れ、友人と散歩にでかけたとする。一羽の鳥が茜空に遠ざかっていく。あの鳥が飛んでいるのは、翼を羽ばたかせ揚力を生みだしているからだと、あなたは証明できるだろうか。
「ここは実験室じゃないんだぜ? あそこでいま飛んでいる一羽の鳥が、本当に力学の法則に基づいて飛んでいるかどうかなんてわからんじゃないか。上昇気流に乗っているだけかもしれんし、誰かが上からピアノ線で吊ってるのかもしれん。ひょっとすると、現代科学では解明されていない未知の力が働いているのかもしらんぜ?」
 理屈っぽい友人がこんなふうにまくしたててきたら、あなたはどう答えればいいだろう。

 AとBが関係していることを客観的に(弁護士を次の証言者に急がせるほど客観的に)証明するには、ふたつの方法がある。統計と、科学実験だ。
 殺人や過剰な暴力を描く小説が、成長期の心に悪影響をもたらすことを証明したいとする。十代の少年少女が推理小説を読んでいる国とそうでない国とで、犯罪発生率の違いを調べてみる。ミステリが普及している国のほうが、若者による犯罪発生率が高かったなら、無垢な子供達に悪書を与えてはいけないと結論できるだろうか。
 残念ながら、できない。統計手法に問題がなければ、ミステリと犯罪とは確かに相関がある。しかし相関があるからといって、それが因果関係だとは限らない。
 証明されたのは「ミステリを読む、ならば、犯罪に走りやすくなる」ではない。例えば、若者が生活苦から犯罪に走るほど経済状況が悪化している国では、高価な娯楽には手がとどかないため代わりに安価な推理小説が読まれるのかもしれない。統計は相関を証明するが、それは必ずしも因果関係ではない。
 因果関係を証明するには、統計ではなく科学実験が必要だ。AからBへの論理を考察し、仮説を立て、理想的な環境でそれを実証する。追試を繰り返し、蓋然性を高め、そうして初めて因果関係が証明される。

 ここでひとつ、注意してほしい。因果関係の証明には、論理性と蓋然性の両方が必要となる。論理に矛盾や飛躍があってはおかしいし、追試で再現性が確認できないなら意味がない。どちらか一方だけでは不充分だ。
 これは実験に限らない。問題Aの解答Bを考え、現象Bの原因Aを調べるとき、正しい論理だけではなく、充分な蓋然性が必要となる。それは現実のことに限らず、仮定の推論さえ例外ではない。
 九つの金塊から天秤を二回だけ使って、ひとつだけ重さが大きい金塊を探せるだろうか。もちろん、できる。ただし天秤が壊れていた場合を除く。テーブルの上に林檎が一個あり、そこへ別の林檎をもう一個持ってくるといくつになるだろう。もちろん、二個だ。ただし突風が吹き込んできてカーテンに林檎がなぎはらわれた場合を除く。
 問題文に記述されていないからといって、天秤が壊れていた可能性や、突風が吹き込んでくる可能性を疑う者はいない。私達は滅多に天秤が壊れず、突風が吹き込むことのない世界にいる。だからこそ、そのような条件をわざわざ問題文に記述する必要がない。日常論理という蓋然性無しに、これらの問題は成立しない。

 最初の疑問に戻ろう。茜空に遠ざかっていく鳥は、どうして空を飛んでいられるのか。一回限りの体験Bについて、その背景となる原因Aをどう結論すればよいのか。
 鳥が空にいられるのは翼があるからかもしれず、上昇気流やピアノ線、現代科学では説明のつかない未知の力のおかげかもしれない。結果Bをもたらす因果関係はさまざまだ。しかし、蓋然性はそれぞれ異なる。翼のおかげで鳥は飛べるという因果関係は、他よりも圧倒的に蓋然性が高い。
 科学実験なら、追試を繰り返すことで蓋然性を高めることができる。しかし、一回限りの体験についてはそうもしていられない。私達はもっとも蓋然性の高い因果関係を選択し、それこそが真実だと結論し、そしてそれでたいがいは問題にならない。理屈っぽい友人の主張は決して間違いではない――単に、馬鹿馬鹿しい。

 ミステリは、謎を解く物語だ。探偵役は事件を調べ、推理し、真相に到達する。このプロセスを、もう少し細かく見てみよう。
 あなたが豪邸に招かれたとする。昨晩の雪で、広大な庭は銀世界に変わっている。ご隠居が寝泊まりしている離れへ、一筋の足跡が向かっている。夜中に雪がやんだ後で本邸から戻ったのだろう。
 漠然とした不安にかられたあなたは、離れを訪れてみる(もちろん、雪上の足跡を消さないよう注意しながら)。驚くべきことに、そこには死体が転がっていた。夜のうちに誰かが離れを訪れ、ご隠居を殺害したに違いない。
 そういえば、足跡は一筋だけだった。犯人はまだ、離れに隠れているのではないか。あなたは周囲をくまなく探すが、誰の姿もみつけることができない。
 これはおかしい。ご隠居を殺害した後で犯人が本邸へ戻ったなら、必ず足跡が残るはずだ。ここに至ってあなたは、犯人がなんらかの工夫で足跡を残さずに本邸へ移動したと結論する。
 さて、この推理の過程をもう少し詳しく追ってみよう。足跡をみつけたとき、あなたはそれを解釈1「ご隠居が残した」と判断した。だが同時に、解釈2「ご隠居以外の人物がつけた」、解釈3「足跡はご隠居のものだが、他の人物も雪が降り止む前に離れへ向かった」といった他の解釈もありえるはずだ。
 なぜ、私たちは解釈1を選択したのか。それはご隠居が離れで寝泊まりしているという前提からすれば、解釈1こそ最も蓋然性が高いからだ。他の解釈も(上昇気流やピアノ線のように)決してあり得ないわけではない。しかし蓋然性が低いため、この時点では無視される。
 離れへ向かい、死体を見つけたあなたは解釈1を見直す必要に迫られる。物理的に考えて、犯人も離れに来ていなければ殺人を為すことはできない。こうして解釈4「ご隠居を殺害した誰かが、この離れに隠れている」を得る。可能性としては解釈5「ご隠居を殺害した誰かが、特殊な方法で足跡を残さずに本邸へ戻った」といった他の解釈も可能だが、先程と同じく蓋然性に基づき棄却される。
 あなたは離れを捜索し、誰も隠れていないことを知る。こうして解釈4が棄却され、解釈5が選択される。
 この過程を図「ロジックとルール」にまとめる。

ロジックとルール

 探偵役はさまざまな事物を目にし、証言を耳にして、それを解釈する。事物からは複数の解釈が可能だが、蓋然性を考慮し、ひとつだけを妥当な解釈とみなして他を棄却する。このような、事物/証言を解釈するときの根拠となる因果関係を「ルール」と呼ぼう。ルールとは、具体的には現場状況や常識的な知識を指す。それなりに蓋然性が確認されてはいるが、絶対に正しいとは限らない法則だ。
 探偵役はさまざまな手がかりを観察し、解釈を積み重ねる。しかし、これらの推察は必ずしも整合性を満たさず、統合的判断のもとに解釈の見直しが図られる。このように複数の解釈を整理し検証するための判断規則を「ロジック」と呼ぶことにしよう。具体的には論理学の法則や、日常レベルでは疑いようのない物理法則などがそれにあたる。
 ルールと異なり、ロジックには間違いがない。ロジックによる検証に合格できないなら、それは選択したルールの間違いだ。蓋然性の低い別の解釈を選択し直さなければならない。事実に対し適用するルールを選び、そこから得られたさまざまな解釈をロジックで総合的に判断し、整合性に問題があるなら解釈を選び直す。このような手続きを繰り返すことで、確たる結論に到達する。

 言うまでもなく、実際のミステリ作品にこのようなまわりくどい過程が描かれることはない。現実の日常生活では、目前の事象に対し蓋然性の高いルールを反射的に思い浮かべることができる。私達は理屈っぽい友人のように馬鹿げた可能性をいちいち検討することはない。林檎を目にして、それを林檎に似たなにかである可能性を疑ったり、イデアや実在に到達できないなどと考察を巡らすのは哲学者だけだ。探偵役はロジックによる検証作業にのみ集中すれば、ルールなど意識しなくとも真相にたどりつける。
 しかし、推理にルールが不可欠なことも確かだ。観察した事象について原因を推察し解釈を積み重ねる準備段階が無ければ、ロジックによる検証を始めることはできない。言うなればルールは目立たない土台であり、その上にロジックによって壮麗な伽藍が築かれる。真実の高みに手を伸ばすにはロジックが必要だが、蓋然性の高いルールによる堅固な土台もまた不可欠だ。
 では――その土台を作れないときはどうか。頻繁に天秤が壊れ、突風が吹き込む世界があったなら。蓋然性の高いルールがみつからない世界で、探偵役に推理は可能だろうか?

 推理には、論理性だけではなく蓋然性も等しく重要なことを述べた。このことを頭の隅にとどめておいてほしい。
 それでは作品分析に移ろう。ただし『ひぐらし』だけではなく、一見かけ離れているように見える二つの作品をあわせて分析する。
 ひとつは谷川流『涼宮ハルヒの消失』(以下『消失』)、もうひとつは米沢穂信『夏期限定トロピカルパフェ事件』(以下『夏期限定』)だ。
 『消失』は、犯人探しや意外な展開にミステリらしさがあるが、一般的にはライトノベルとして、それも累計五百六十万部を超えた人気シリーズの代表作として認知されているだろう。『夏期限定』は逆だ。愛らしいヒロインのキャラクター性にライトノベルらしさがあるが、謎解きにおける緻密な論理展開や、探偵小説研究会『2007本格ミステリ・ベスト10』(原書房)で四位を獲得していることからもわかるように、本格ミステリであることを誰も疑わない作品だ。
 同人ゲーム、ライトノベル、本格ミステリ。畑の異なる三つの作品を分析し、そして最後に、一見かけ離れているように見えるこれらの作品に、謎解きの面で共通点があることを指摘する。

...「CRITICA」第4号に続きます...