…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

 俺が眼を覚ましかけたとき、そのミツバチの羽音みたいなうなりは、まだうっすらと耳の奥に余韻を残していた。
 瞼を開かなくとも、まだ真夜中なのは体内時計でわかる。いま聞こえたのはなんだろうな。むかしの映画で耳にした、ボンボン時計の鐘の音に似ていたが。
「お兄さま……」
 人の気配を感じた。
 どうやら、誰かが布団の上に乗っているようだ。重さで身動きできない。
 ……おかしいな…………。
 ……おかしいぞ…………。
 相手が誰なのか、わからないわけじゃない。こういうイタズラをするヤツなら、すぐに一人思いつくからな。
「……お兄さま」
 だがな、そいつは俺のことを別の名前で呼んでいたはずなんだ。そう、なんというか、どことなく間の抜けた響きの愛称で。どんな思惑があろうと〈お兄さま〉などとは呼ばないはずなんだが。
 うっすら瞼を開く。暗闇に、影絵が浮かぶ。丸い髪留め、チェリーを思わせる赤。
「お兄さま……お兄さまお兄さまお兄さま」
 そう、妹なら。
 自分のことを、***と呼ぶはずだ。
「お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……おおおお兄兄兄さささままま……おにいさまア――ッ……」
 妹の膝の上。
 三毛猫が、楽しげにバリトンで歌っていた。

 シャミセン、おまえか。独り言をもらすと同時に目が覚めた。
 起き上がる。がらんとした部屋があった。客間とはいえ、家具が少なすぎる。畳の上に敷かれた布団が、気のせいか小さく見える。
「……シャミセン?」
 猫の名前か? だとすると、ひどいセンスだ。妹が名づけたのか。妹? 俺には……妹がいたのか?
 側頭部を押さえる。かすかな痛みがあった。そうだ、夢の中の俺は、自分の愛称を知っていた。なんだった? なんという呼び名だった? 簡単すぎるくらい簡単な名前だったが。
(……ダメだ)
 思いだせない。
 俺は、自分の名前すら思いだせない。

 身支度を整え、リビングに向かう。コタツ机の向こうに、いつもの顔があった。
「おはよう」
 分厚い文庫本を読んでいた少女が顔をあげ、かすかにうなずいた。いつもと同じ表情、いつもと変わらないしぐさ。コタツ机には、ジャムを塗った食パンと、湯気を上げるコーヒーがあった。
 休日だから、今日はいつもより起床時間が遅くなった。そのはずなんだが、気のせいか昨日とまったく同じ位置にあるように思えてならない。
「わかった」
 ほとんど唇を動かさずに、長門は言った。
「明日からは変える」
 いや、不満を言ったわけじゃない。気にするな。初めの頃みたいに、三食すべてがこの献立だったときはさすがに参ったがな。
 できるだけ、笑顔を作ろうと努力した。昨日まで自然にできたことが、いまはなぜか難しい。俺は、昨夜のことをできるかぎり胸の内から押しやろうとした。
「客」
 パンを一口食し、コーヒーで流し込んだところで声をかけられた。
「客?」
 言葉の意味は理解できるが、首をひねった。このマンションを訪れるような第三者が思い浮かばない。長門に家族からの連絡らしきものは、これまで電話も郵便もいっさい無かった。もちろん、居候の身分である俺が、家庭事情を訊いたことはなかったが。
 ひょっとして学校の友人か。年末年始、部活仲間で冬合宿に行ってたしな*1。邪魔になるなら、適当に外をぶらついてくるぞ?
「違う」
 分度器をあてなければわからない程度に、長門は首を斜めにした。
「あなたに」
 コーヒーカップを手にしたまま、固まった。
 記憶喪失の俺に、客?

 初めましてというべきですかね。その優男は、開口一番にそう言った。
「古泉一樹です……この名前に、心当たりはありますか?」
 俺は頭を振った。
 それは残念です。古泉と名乗った男は、残念そうな表情をせずにそう言った。むしろ、予想通りとでも言いたげな笑みをしてやがる。
「念のため確認させてください。あなたは自分のことを思いだせないんですね? 自分がどこの誰なのか、名前すらも」
 コタツ机には、朝のコーヒーに代わって湯飲みがふたつあった。気を使ったのか、長門は席を外している。
「悪いが、まったく覚えてないな。古泉……さん? あんたは、俺の知り合いかなにかだったのか?」
 やれやれ、自分の年齢がわからんと、敬称をどうするかさえ判断に困るな。あなた、なんていう呼ばれ方からすると、親しい相手ではなかったようだが。
「呼び捨てで構いませんよ。僕はあなたの恋人でした」
 客間の襖が開いた。
 無表情な長門が立っていた。
「冗談です」
 襖が閉じた。
「そうですね、僕とあなたの関係については、もう少し後でお話ししましょう。ですので、戻ってきてくれませんか。そんなに遠いと話をするのも不便じゃないですか……ありがとうございます。参考までに教えてください。長門さんは、あなたのことをなんと呼んでいるんですか」
 座布団に腰を下ろしながら、俺は答えた。
「とりあえず仮の名前として、一郎と決めている」
「ほほう。すると、名字は呉ですか。興味深い。それなら僕は、若林と名乗るべきだったかもしれませんね*2
 なにを言ってるんだ、こいつは。
「なぜ若林かというと――僕は今日、あなたの記憶を回復させることができるかどうか、試しに来たからです」
 そう言って、古泉は渋茶をズズーッと啜った。