YOMIURI PC 編集部『パソコンは日本語をどう変えたか』(講談社ブルーバックス)を読んだ。
 六十年代頃からコンピュータが国内に普及し始めたが、初めはアルファベットや記号しか扱えなかった。日本語をキーボードから入力し、プリンタで印刷したい。そんな要望に応えようとした技術者達の工夫と努力が綴られている。
 かな漢字変換技術の変遷、フォント制作現場の舞台裏、コンピュータが日本語に与えた影響など多種多様な話題が紹介されていて面白かった。

 私は入社十年にも満たない一プログラマに過ぎない。けれど、むかし苦労したことが読み進めるほどに思いだされて、考え込んでしまった。
 ある商用サイトの保守をしていて、エンドユーザから文字化けを指摘されたことがあった。調べてみると、ユーザが入力したのは機種依存文字だった。機種依存文字とは、OSなど環境の違いで表示が異なってしまう文字を指す。例えば Windowsの丸数字は Macintoshでは別の記号になってしまう。

 これをきっかけに興味が湧き、機種依存文字について調べてみた。そのとき驚いたのが、半角カタカナは機種依存文字ではないということだった。

鳩丸ご意見番 - 半角カナは機種依存文字か?
http://www.ne.jp/asahi/minazuki/bakera/html/opinion/halfwidthkatakana

 私が大学生だった九十年代後半、インターネットでは半角カタカナの使用を控えるべきとされていた。実際、電子メールに使用される JISコード(ISO-2022-JP)には確かに半角カタカナが定義されていない。
 個人的にも、半角カタカナは好きではなかった。同じ文字に、なぜ二つの表示があるのか。たかが横幅を半分にするためによけいな文字があるのは気味が悪かった。

 ところが上記リンク先にある通り、半角カタカナは国際規格にも定義されている。
 なにより現代では、顔文字などのアスキーアートに利用され、固有の文化を形成している。いまさら半角カタカナを扱わないようにしましょうとは言えないだろう。

 ちょっと話は変わって、ブラウザでの縦書き表示について考えてみよう。
 縦書き表示は、まだ HTMLや CSSの標準規格に定義されていない。Internet Explorerでは独自拡張のスタイルシートで可能だが、他のブラウザではサポートされていない。

writing-mode-スタイルシートリファレンス
http://www.htmq.com/style/writing-mode.shtml

 このため、JavaScriptや Flashを利用したり、いっそ縦書き表示のためのブラウザを作ってしまうといったさまざま試みがされている。

縦書き入門(縦書きサイト普及委員会)
http://bobodori.hp.infoseek.co.jp/nyumon/
影鷹 (kagetaka.org)
http://www.kagetaka.org/index.html

 縦書きに限らず、ブラウザは日本語表示の機能が貧弱すぎる。ルビのためのタグ(RUBY)さえ Internet Explorerの独自採用だ。傍点さえ打てない。ダッシュ「――」は一文字目と二文字目の間に隙間が空いてしまう(環境によっては詰めてくれるようだ)。
 つい最近も、Internet Explorerを 7.0にバージョンアップしたところ「■○」といった一部の記号が極端に小さく表示されるようになってしまった。どうも 7.0からデフォルトのフォントがメイリオになり、メイリオのデザインからそうなってしまうらしい(Microsoftなどの公式情報ではなく、Google検索からの推測)。
 しかたがないので、本サイトではスタイルシートでメイリオ以外のフォントを指定している。メイリオのフォントデザイナーは「■○」などを文字通り記号とみなし、伏せ字や見出しの飾り文字といった使用例を見落としてしまったのだろうか。

 昨年、個人誌作成のため LaTeXを勉強し直した。縦書きはもちろん、段組や注釈の挿入も可能。好みに応じて文字の位置や余白の大きさを気の済むまで微調整できる。
 更には漢文、芝居の台本、国語の試験問題といった特殊な縦書きを実現するためのマクロを作った方までいる。

 とりたてて、縦書きが横書きより優れていると主張したいわけではない。問題なのは、縦書きを選ぶことができないこと。縦書きという選択肢そのものが意識されなくなってしまうことだ。
 文化の豊かさを示す尺度の一つは、選択肢の多さだ。幅二列、みんなノンビリしてるエスカレータと、片方を急ぐ人のために空けることが習慣になったエスカレータ、どちらが文化的だろうか。
 上記のリンク先を眺めていると、ありえたかもしれないもうひとつの未来が垣間見える気がしてならない。

 ただその一方で、そもそも HTMLがこれだけ広まったのは、LaTeXのように高機能ではなかったからだ、という考えもある。高機能ではないからこそ、簡単だ。必要最低限の知識しか要求されないから、すぐに学習できて誰でも使える。
 日本語の文章は変わった。ブログやメールの文章を、コンピュータが無かった時代の手紙文と比べてみれば明らかだろう。半角カタカナが顔文字などのアスキーアートという文化に発展したように、横書きも新しい文化を生みだした。日本ケータイ小説大賞を受賞した「あたし彼女」は、文体がケータイで読まれるために最適化されている。

あたし彼女 kiki【ケータイ小説野いちご】
https://www.no-ichigo.jp/news/0901/kiki/01.pc.php

 既に LaTeXという例がある。熱意ある技術者が標準化団体に働きかけていれば、今頃ブラウザも高度な縦書き表示を実現できていたはずだ。
 しかし、もしもそうなっていたら、ケータイ小説は無かったかもしれない。日本語文体の新しい実験的試みは無くなっていたかもしれない。
 技術と文化は、ひとつの境界線で区切れるほど明確にはわかれていない。技術の貧困がひとつの文化を弱らせることもあれば、思いがけず新しい文化を花開かせることもある。

 これは興味深い、哲学的な問いだ。
 熱意と努力で、技術を完全なものに近付けることはできる。しかし、それには時間が必要だ。とりあえずできることから順番に、不十分な技術から広めるしかない。
 不十分といっても、むしろ単純だからこそ普及しやすく、新しい文化的土壌を形成する。結果的にそれは、目標としていた既存の文化を駆逐してしまうことさえある。
 ではそのとき、人はなにを為すべきなのか。完全な技術が完成するまで公開を禁じるべきなのか? 偶発的な新しい文化を歓迎すべきなのか?