木村武は小泉夏夫を殺害した後、手を洗うためにトイレに行った。
 流れる水に手をのばそうとし、自分の手がなにかを握っているのに気付いた。それはパステルグリーンの色をしたゴム皮膜に覆われた細長いもので、両端にモジュラージャックをひとまわり大きくしたようなプラスチック部品がついている。くるりと二巻きほどしたものを木村はみつめ、やがてそれがLANケーブルだと気付いた。強く引っ張ったため、ゴム皮膜が少し縒れている。
 洗面台から細く水が流れ続ける。
 鏡に、自分の姿があった。
 陽気なアロハシャツの色彩、その上にある強張った顔。
(……アレ)
 赤黒く変色していく小泉の顔を、ぼんやりと思い出す。
(そっか、手を洗いに来たんだっけ)
(ん? なんで手を洗うんだ?)
(小泉さんがPCを勝手に)
(そうだ、手を洗わないと)
(あれ? ケーブルどっから?)
 絶え間なく響き続ける水音。腰を屈め、指先を流れに近付ける。切れ切れの想念が浮かんでは消える。
(そうだ、小泉さんの首を絞めて)
 甲高い音がした。思わず身をすくめ、頭を両腕で覆う。ケーブルが手を離れ、宙を舞い床に落ちる。アラーム音が鳴り続ける。心臓をダイレクトに振動し続ける。
(なんだ?)
(聞き覚えがある)
(小泉さんが)
(ほら、ドアが開きっぱなしだと)
(誰だよ、また)
(小泉さんがドアに挟まってる)
(ここ何階?)
(でも今日は休日で)
(四十二階)
(小泉さんの死体がドアに挟まってる)
(どうして四十二階に?)
(俺が絞め殺した小泉がドアに挟まって警報が鳴ってる)
(飲み物がほしくて)
 水をとめる。屈み込み、ケーブルを拾う。尻ポケットからハンカチをとりだす。歩く。トイレをでる。ハンカチでケーブルを拭う。エレベーターホールを横切る。死体がそこに倒れている。下半身を横向きに、上半身を捻り仰向けに。張り裂けるほど目を見開いて小泉夏夫が倒れている。首にぐるりと一巻き、紫濃く変色した跡が残っている。指紋を拭ったケーブルをオフィス内に投げ込む。床の上にバラリとそれは力無く横たわる。
 逃げないと。
 振り返るとエレベーターの階数表示が目に映った。ランプが次々と明滅し、誰かが上がってくるのを示している。横隔膜の辺りに濁りを感じた。毒のようにそれは口元へと這い上がってくる。やばい、やばい! これは正当防衛だ! 俺のせいじゃない! 向こうから先に襲いかかってきたんだ!
 駆け出す足をとめることはできなかった。エレベーター脇、非常階段のガラス扉へぶつかる勢いで走る。引き手の下にある、銀色のつまみを九十度回転させる。金属音を立ててボルトが受け皿から離れ、解錠される。ドアを引き、踊り場に飛び出る。
 待て!
 強い自制命令が頭の中に轟いた。
 エレベーターフロアはリノリウムの床なのに対し、非常階段は金属製で足音がダン、ダンと強く響く。急にブレーキがかかった足に上半身が追いつかず、転げそうになり手すりにすがった。踊り場の、階段が折り返しになる部分の手すりにしがみつき、屈み込む姿勢になった。上の階へと続く階段、下の階へと続く階段、その間のわずかな隙間、握り拳の幅しかない空間、四十一階分の垂直な空間が心を奪い去った。眩暈を感じ、足が萎える。フラリと背後によろけ、一歩後ずさりしたとき、閉じてゆくドアが視界の隅を過ぎった。
 まずい。来たとき以上の勢いでドアに飛びつく。危うく閉まりかけるドアを指先で押さえる。非常階段に逃げてどうするんだ、下の階に戻るとき、カードキーで記録が残る! 慌てて殺人現場から逃げ出した自分の記録が残る!
 扉を開ける。エレベーターホールに転がり込む。階数表示が、三十階を超えていた。判断する余裕はない。男性用トイレに駆け込む。洗面所の脇に身を隠す。
 どうして。
 どうしてこんなことに?
 エレベーターの到着を告げるチャイム音がした。ケーブルの食い込んだ指関節が、今頃じくじくと痛み始める。陰になって見えないが、三基あるうちの真ん中の扉が開く気配がした。
「……こりゃあ」
 聞き覚えのない声。足音。警備員の姿。真っ直ぐに死体のほうへ歩み寄る。
 どうする? ここに隠れてやり過ごす?
 相手が一人なら、隙を見てエレベーターから逃げられるかもしれない。
「殺されてますねえ」
 もう一つの声。妙に間延びした、しかし決定的な意味を伝える声。
 警備員の背がスッと伸び、おずおずと振り返る。
「……え?」
 もう一人の男が、陰から現れる。
「ほら、首」
 白髪混じりの頭が、動いた。ドアに挟まっている男を、顎で指したらしい。慌てたように首の向きを戻し、警備員は腰を屈め、まじまじと死体を、絞殺の痕を、みつめる。吐きそうに口元を覆っている。
(黒深さん?)
 アラームの音がまだ鳴り響いている。
(どうしてここに?)
 まいったなあと後頭部をかきながら警備員が腰を伸ばした。

 渡された名刺に目を落とす。告げられた名前と、漢字の読みが一致しない。
「クロブカと書いて、クロミと読むんです」
 木村が顔を上げると、目尻の皺をより深くして、黒深が微笑んでいた。両手を前で合わせ、すっと背筋を伸ばしている。
 七月。川崎本社から初めて品川に移動した日のことだった。朝からずっとバタバタしていた。終わっているはずの社内LAN工事が終わっていなかった。朝一番でパソコンのセットアップから始めたのに、メールもウェッブも、プリンタさえもつながらない。業者が土日の間に運んだ段ボール箱をひとつずつ開けては黙々とデスクに詰め込み、若くて力が余っている下っ端らしく、右に左に体力仕事を手伝った。
 八千草に呼ばれたのはそんなときだった。なにも言わず手招きするので行ってみたら、しっかり背広を着込んだ見慣れない顔がふたつあった。今度から入る協力会社の方、と紹介される。おいおい、こっちはTシャツ姿で埃まみれ汗まみれなんですけど。人に会うときくらい予めそう言ってくれ。
 住所が変わるので新しい名刺を頼んでいたときだった。というか、開発系なので名刺は持ち歩いていない。へこへこ頭を下げていると、八千草が冷たい眼差しで睨んでいた。ハイハイ、すみませんね、マナーできてなくて。
「エート、お二人はいつから?」
「今日から」八千草が短く応える。
「……デスクは?」
「どっかあるんじゃない?」
「PCとかネット申請は?」
「よろしく」八千草がとても短く応える。
 引越初日なんですけど。手続き数日かかるんですけど。この二人、今日はどこでなにさせりゃいいんですか?
「一応、ノートPCは持ってきましたから」
 高級そうなスーツを着た三十代半ばの男、小泉は深みのある声で言った。
「会議室でもお借りして、紙の資料か、USBメモリで頂ければ、今日は資料確認ができると思います」
 そうですね、不要段ボール箱を十枚ずつ紐で縛るとか、キングファイルを棚に詰め込むのを手伝ってもらうってわけにゃいかないすね。
 あったり前じゃん、と八千草に後頭部を叩かれた。

 某玩具メーカーの商用ウェッブサイト構築プロジェクトに八千草と木村は参加していた。八千草はパッケージソフトウェアにない機能の作り込みを担当するグループのリーダー。木村はエンジニア兼プログラマとして八千草に鞭打たれながらキリキリ働いていた。
 プロジェクトは詳細設計のフェーズに進んでいた。基本設計、つまりどんな画面や処理があるのかというおおざっぱなレベルの検討は済んでおり、プログラミングに必要なもっと細かいレベルの検討に進んでいた。
 はずだった。
 まあ、いつものことだ。一部の機能について基本設計が遅れていた。何度打合せを繰り返しても宿題事項が増えていく。そしてお客様は実に気安く機能増加を要求する。もっと検索条件を増やせ、あれもこれも画面に表示しろ、データ連携する会社増えてもいい? お客様と直接対面する営業系システムエンジニア(イコール八千草)は実に気安く「了解しました」「確認します」と言ってくれる。てめえ、データ連携する会社が増えればインタフェース用のバッチ処理が二倍になるだろうがゴラア、とは心優しい開発系システムエンジニア(イコール木村)は言わない。
 プロジェクトマネージャーはいつも通り対策を打つ。検討が進んでいる機能から並行して詳細設計に入ります。詳細設計から人を増やします。当初見積工数から計算すると、二名の増員で進捗の遅れを回復できるはずです。
 システム開発において工数は人月、つまり一人の人間が何ヶ月かかるかという単位で見積をする。例えば十人月なら二人で五ヶ月かかるわけだ。従って、増員して十人でやれば一ヶ月で終わるよね、と小学生の算数のようなことを考える。これを人月の神話という。
 教室の掃除に五人で十分かかります、では千人いれば何分で終わるでしょうか? 答え、足の踏み場もなくて、いつまで経っても終わりません。小学生の謎々をプロジェクトマネージャーは解けない。
 入社三年目の木村でも、プロジェクトのそういった状況はそれなりに理解していた。プロジェクト計画の時点で残業続きになることは収支率に組み込まれていた。毎日のように資料を作り、レビューを受けては修正する。問い合わせ票を関連各社に投げて、回答が遅れたらせっつく。よし、これだけ真面目にやってれば大丈夫だろう。宗教上の理由により八月は三日間、安息日をとらなければならないんですと夏期休暇を申請したら、八千草に比喩的かつ物理的に蹴られた。
 まだプロジェクト関係者にゆとりというものが空想的存在となる以前、飲み会があった。牡蠣を食いたい、食わないと死ぬという八千草を救うために、幹事木村は東奔西走した。正確にはネットで探したら五秒で駅近くに牡蠣料理の店がみつかった。飲み放題がない店という形而上的存在が木村にはよく理解できなかったが、八千草がオーケイをだしたので予約した。
「小泉さん、休日とか、なにしてるんですか」
 八千草が白ワインを傾ける。
「いえ、特になにも」
 特になにも。小泉はいったんそう断ってから、フィットネスクラブだの美術館巡りだの、唇からこぼれるその真っ白な歯のようにキラキラとまぶしい返事をいくつか連ねた。キャンドルの炎が、彫りの深い顔をますます印象的にしている。八千草は五歳になる愛息子が学校給食でピーマンを食べることができず夫がそれならと腕によりをかけた数々の自作料理で偏食をなおした美談を、一言も語らず忘却の彼方へ追いやったように瞳を輝かせて小泉の話にうなずいていた。
 小泉は有能だった。仕事が速く、正確で、技術知識もあった。常に物腰柔らかで、それでいて他人の誤りへの指摘は的確かつ容赦ない。そっと後ろに回って気付かれないよう十八金ネックレスを首にかけてやりたいくらい素敵な男だ。
 木村はメニューを見ていた。どうして百円台以下が全部ゼロばかりなんだろう。つまみに軟骨揚げとかないのかなあ。
「休日とか、木村さんはなにされてるんですか」
 黒深が放射状に並ぶ殻付き生牡蠣を手にとりながら言った。
「そうですね、秋葉原を一人でですね、」
「話題、変えましょうか」
「お願いします」
「フォーム入力値チェックですけど、サーバ側でのチェックも必要ですよ」
「MAXLENGTH指定してあれば、入力できないんじゃ?」
「いえ、クロスサイトスクリプティングを防ぐのに必要なんです。INPUTタグのMAXLENGTH属性はあくまでクライアント側でのチェックですから、極端な話、ユーザがHTMLフォームを自作してしまえば好き勝手な値を送信できるでしょう? そもそも、ブラウザによってはMAXLENGTH属性の解釈が異なることがあるんです。バイトで数えることがあるんですよ」
「え? MAXLENGTHは文字数の制限でしょう?」
「まあ、RFCではそうなんですが。二バイト文字を長さ一と数えるブラウザと、二と数えるブラウザがあるんです」
 なるほどとうなずく木村の後頭部を、仕事の話するなあと八千草が叩いた。

 黒深は印象が薄かった。階は同じでも席が離れており、メールでのやりとりがほとんどのため会話がない。定例ミーティングで顔を合わせても、特になにも発言しない。仕事が遅れるということはないようだが、喫煙コーナーでやたら雑談に興じている姿が目についた。担当された範囲の仕事はこなすが、そこから広がることがない。ときどきメールで詰まらない質問をしてくるようで、またあの爺ちゃんは、と八千草は何度かモニタ相手に声をあげていた。
 九月に入った頃、デスマーチの足音が聞こえてきた。
 本来のスケジュールでは試験が始まっている頃だった。しかし決済など一部の機能が基本設計すら済んでいなかった。大幅な仕様変更があり、契約の見直しがあった。しかしリリース時期は延長されなかった。プロジェクトマネージャーが急性胃腸炎で入院した。
 試験要員が増加された。試験項目書さえあれば試験は誰でもできるが、途中参加のものは見当違いのことをバグと勘違いしやすい。しかしそれが見当違いであることを木村は調査および説明しなくてはならない。回答作成に手をとられ、設計が遅れ、遅れを取り戻そうと残業し、終電の灯を迎えることになる。まあ、終電くらいならいいほうだ。泊まり込みだとか、俺は労働基準法の限界に挑戦するぜオラオラとか、倒れるとか入院するとかならまだいいほうだ。文字通り死人がでてこそデスマーチだよね、と木村はとてもポジティブシンキングである。
 不思議なもので、暇なときは一日が長いが、多忙なときは早い。夕方六時を過ぎると電話やメールが減り、業務に集中できるようになるので「さあ、今日も一日が始まった」という気になる。リフレッシュすべく休憩コーナーに行き、お気に入りの飲み物を自動販売機で買おうとしたが売り切れていた。諦めることはない、上の階にも自動販売機はある。
 非常階段から四十二階に上がると、黒深がいた。木村もあまり顔を知らない、ERPシステムの維持管理担当者と話をしてる。
「ほら、ここにORA-20000てあるでしょう?」
 黒深がモニタを指差し、担当者がうなずく。
「これですよ。多分、システム再起動しないとダメでしょうねえ」
 うわあ、と声をあげて担当者が肩を落とし、頭をごつんとキーボードにぶつける。お気の毒さまです、と黒深が背中をポン、ポンと叩いてやり、木村がいるのに気付いて近寄ってきた。
「なにかあったんですか?」
「ああ、いやね」
 後ろを軽く振り返り、黒深は苦笑いした。
「今日になって突然、おかしくなったとかで。プロシジャが全部エラーになったんです」
「へえ。なにか設定を触ったとか?」
「いえ、それどころか、この四ヶ月触ったファイルはひとつもなし、順調だったんです。もう三年も経ったシステムで、細かいバグは枯れてました。表領域も足りてましたし、プロセスが急に暴走したりCPUが壊れたわけでもありません」
 謎めかすような口振りだった。二人して休憩コーナーに入る。黒深が身振りで先にどうぞと示し、木村は硬貨を入れた。
「かなりレアケースですね。バッファが足りなくなったんですよ、DBMS_OUTOPUTのバッファが」
「DBMS_OUTOPUTって、動作確認のときに使う?」
 黒酢入りメロンソーダのボタンを押す。取り出し口の向こうで紙コップの落ちる軽い音がした。
「そう、SQL*Plusなんかでログをだすヤツですね。バッファサイズは上限値が設定されてましたけど、起動しっぱなしで遂に不足してしまった。それでプロシジャ実行に頼ってる処理が全部エラーになったんです」
「ウワー、こわ。プロシジャの実行終了時にバッファは開放されないんですか?」
「されないんですよ。アプリケーションがデータベース接続を保持し続けてる間、ずっと蓄積されます。で、ある日ある時になって突然エラーをだしまくる。時限爆弾みたいなもんですね」
 取り出し口が開き、木村は紙コップを手にとる。続けて黒深が硬貨を入れた。砂糖抜き、クリーム多めを指定してアイスコーヒーのボタンを押す。
「嫌な話だなあ。ウチはWindows系だから、大丈夫すよね?」
「そうですね、Windows系なら月に最低一度は再起動するでしょうし。まあ、セッション毎にデータベース接続を持つとか、アプリケーションの作りによっては起きない現象ですけど。維持管理の人が気の毒ですね」
 取り出し口から黒深がコーヒーを手にとりながらオフィスのほうを振り向く。
「黒深さんも維持管理されてたんですか?」
「え? ああ、ちょっと昔。痛い話、たくさん知ってますよ」
 目を細めて笑いながら木村の顔を見る。
「システム開発してるときは、運用や障害対策のことまで考えがまわりませんからね……お客さんもそんなことはこっちが勝手にやってくれるだろうと思うし、こっちは要求されてないことなんてやらない。せめて、費用と期間が足りないからここは削っちゃいますよ、とこっちから明言できればいいんですけどね」
 理想としてそうだ、ということは木村も理解していた。銀行や官公庁のシステムなら慎重だろう。しかし三ヶ月から半年程度の短期間で開発する商用サイトでは、大量の個人情報を扱うにも関わらずセキュリティや障害に対する意識がいまいち低い。
 飲み会のときの会話を思い出す。実のところ、クロスサイトスクリプティングを防ぐためにはフォーム入力値チェックをサーバ側で徹底して行うべきだとは木村も知っていた。
 入社間もない頃、試験担当の業務を受け持った。そのとき、入力値チェックのポリシーがまちまちなのに気付いた。ある画面ではきちんと文字の種類やバイト数がチェックされているのに、別の画面ではいきなりデータベースに登録しようとしてスキーマ違反のエラーとなり、しかもエラーコードを直接ブラウザに表示してしまった。
 上司に報告すると、いちいちそんな細かいことで障害票を作るなと言われた。サーバ側でチェック処理をきちんと行うことは、セキュリティ向上のためには確かに必要だ。しかしそれを実現しようとすることは、開発と試験の工数増加を意味する。
 かつてシステム開発といえば、半年から数年かけて構築するものだった。しかし近年、パッケージソフトやプログラムの部品化により、低コスト短期間での構築が可能になった。猫の会社も杓子の会社もウェッブサイトで商品をオンライン販売し、営業成績や売上実績をリアルタイムで表示したがっている。低コスト短期間の代償がなんなのかも知らないままに。
「納入から数年経って、システムダウンや個人情報漏洩が起きて騒ぐ。そりゃそうですよね、誰もそんなこと責任感持って対処なんかしてないんですから」
 黒深がアイスコーヒーを一口啜る。
 ハハハ、そうですね。木村は笑顔で相槌を打った。

 休日出勤はある意味、気楽でいい。出社が遅くても構わない。電話がかかってこず、業務に集中できる。音楽を聴きながら仕事してもいい。おまけに明日は休みを取れることになっていた。なんでも、そろそろ休みをとらないと労働基準法上ヤバイことになるらしい。
 さて、昼休み。買ってきておいたサンドイッチで手早く昼食を済ませると、リクライニングを倒し横になった。ハンカチで目を覆い、無我の境地へ。
「アー、もう、九月なのに暑すぎ!」
 八千草がバッグを置く音がした。確かに今日は残暑厳しい。朝は冷房が行き届いてなく、黒深はハンカチを額にあてながら仕事していた。
 無我の境地から蘇り、ハンカチを取り去っておつかれさまですと声をかける。まるっきり無視して八千草はウチワをパタパタさせながら富士山見えるかな、富士山と非常階段のほうに歩いていく。
「富士が見えるんですか?」
 遠くから黒深の声。運と天気がよければと八千草が応える。二人が西側非常階段の扉から出て行くのをぼんやりと木村は見送った。寝入りばなを起こされたので頭がぼんやりしている。必要条件は天気だけじゃないかなと思いつつスクリーンセーバを解除し、時刻表示を確認する。昼寝を始めてから十分程度しか経っていなかった。睡眠不足が続いているので、眠りに落ちるのが異様に早い。自分では意識があるつもりでいたのに、熟睡して昼休みになっても目が覚めないことがときどきあった。まあ、八千草が喜んで蹴り起こしてくれるだろう。
 ドアの閉まる音がした。八千草が一人で戻ってくる。やっぱ寝よ。木村はハンカチを目にあてた。
 熟睡。
 目を覚ます。周囲を見渡す。八千草がいない。リクライニングを戻しながら起き上がる。訓練された人間というのは素晴らしいもので、リクライニングをそのままにしたりはしない。そのままにして席を離れ、戻ってからいつも通り座ろうとすると、定位置に背もたれがないのでアレーッと珍妙な声をあげることになる。続けて胸に留めたカードキーを探る。これまた置き忘れ防止の習慣だ。いつも通り、社員証に童顔な自分の顔があるのを確認し、木村は立ち上がる。
 黒深もいない。八千草と昼メシに外へでたのだろうか。いや、黒深は弁当を持ってきていたはずだし、実のところ八千草は「爺ちゃん」がお好きではないようで、食事に誘うとも思えない。
(ん? そういえば小泉さんも昼に来るとか言ってたのにな。まだかな?)
 まさか三人で食事にでかけて自分一人仲間外れにされたではとブルーな気持ちでエレベータホールにでる。トイレで小用を済ませ、戻ろうとしてハタと思いついた。
(上で飲み物買ってくるか)
 昨日も休日出勤だったが、黒酢入りメロンソーダが売り切れていた。自販機の業者が補給にやってくるのは平日夕方だ。論理的に考えると、今日も売り切れのままのはずだ。
 東側非常階段へのドアを開ける。ここは空調がされていないため、ムッと頬に温気があたる。
 このビルは特に事前申請をしなくても各階に入ることができる。法定点検などなら仕方ないが、基本的にカードキーさえ持っていれば土日も祝日も入室できる。四十二階に入ること自体は問題ない。ただ、空調は事前申請がいるため、四十一階について届けをだしていた。
 階段を上がり、四十二階の踊り場に到着する。パネルに胸元を近付け、ボルトが外れる音とともにドアを押し開ける。エレベーターホールを横切り、ここでも同様にカードキーを使う。冷房が動いていないため、蒸し暑い。
 オフィスに入った瞬間、異常に気付いた。奥のパーティションから薄明かりが漏れている。
 天井の照明ではない。蛍光灯はすべて消され、オフィス全体が薄暗い。その中で、モニタの明かり特有のかぼそい、ちらちらした光がパーティションの向こうから漏れている。
 別プロジェクトで休日出勤したヤツがいるのかな。覚醒直後でぼんやりしたまま、ふらふらと明かりに惹かれる。
 急に、明かりが消えた。
 パーティションの向こう、立ち上がる顔があった。
「ああ、小泉さん、来てたんで――」
 まずいな、と思った。スクリーンセーバを解除するように、ぼやけていた頭が一瞬でクリアになった。
 派遣社員である小泉や黒深は、本来なら四十二階に入ってはいけない。会議室の利用などで必要となるためカードキーは四十二階も入れるよう設定されているが、基本的に今回のプロジェクトで四十二階を利用することはない。黒深が四十二階で維持管理担当者相手に雑談していたのも好ましいことではなかった。だからこそ木村はあのとき、様子をうかがっていた。休憩コーナーでの会話で、維持管理の経験がある黒深が技術的相談を頼まれただけだと知って安心した。もちろん、本来の業務に関わりのない他システムのログファイルを参照している時点でかなりまずいが、まあそこはそれ、困ったときの馴れ合いというものだ。
 しかし、今回はまずい。言い訳のしようがない。休日出勤で人目がないときに、無断で他人のPCを触っている。企業秘密を盗みに来たスパイなのか、小遣い稼ぎに個人情報をゲットしにきたのかは知らないが、完全にアウトだ。契約破棄、懲戒免職なんてもんじゃない、刑事事件になることもありえる。
 立ち止まる。対応を考える。説得、恫喝、逃亡、死んだふり。小泉は静かに歩み寄ってくる。ためらいなく、真っ直ぐに、感情を抑えたハンサムな顔が迫ってくる。
 あ、ヤバイな、こりゃ。
 マジモードだ。
 小泉の拳が固く握りしめられている。木村の視界の隅に、デスクの上に置き去りにされたLANケーブルが映った。

 顎元に拳を添え、黒深は考え込むように軽くうつむいている。驚いているようでも、悲しんでいるようでもなかった。ただ、静かに、考え続けている。
「小泉君ですよ、私と一緒に下の階で仕事してる。今日は昼に来るって言ってたんですけどね。どうしたのかな」
 ハア、と警備員はまだ放心したような顔で死体を見下ろしている。経験したことのない非常事態に、どう対処すべきか迷っているようだ。
「犯人、隠れてるかもしれませんね、オフィス内に」
 思わず、肩が震えた。木村の頭の中に、ぐるぐるといくつかの選択肢が現れては消えた。どうしましょう、という風に警備員が黒深の顔をみつめている。
(黒深さん、あんた――)
 おかしい。明らかに様子がおかしい。黒深はいつもの黒深だ。老人のようなゆったりとした口調、おっとりとした構え方。
 しかし、いま、この状況で、どうしていつもの態度でいられるのか。同じ仕事をしてきた知り合いが絞殺され、死体となって横たわっている。それを目にしながらどうして平然としていられるのか。
 警備員は気付いていない。黒深の異常さに気付いていない。このような非常事態に慣れていないだろうし、それほど黒深のことをよく知らないせいもあるだろう。いや、自分だって、こんな特殊な立ち位置で観察していなければ、黒深の異常さには気付かなかったかもしれない。
「ほら、エレベーターで誰も下りてきていなかったでしょう? 犯人はきっと非常階段で別のフロアに逃げたか、そうでなければこの階に隠れたままですよ。可能性をつぶしておきましょう。そうそう、警備員室の人にも伝えて下さい。警察を呼んでもらわないと。ね? ほら、落ち着いて。私はトイレのほうを確認してきますから、山川さんはオフィス内を見てきてくれますか」
 ぎくしゃくとした動きで警備員が死体のほうに歩み寄る。さすがに現場保存のことは頭にあるらしく、なにも触れないよう慎重に死体を跨ぎこそうとしている。黒深がこちらを向き、まっすぐに歩み寄ってくる。
「あの、黒深さん、ちょっと!」
 呼びかけられ、足を止めた黒深がゆったりと振り返る。
「私より、あなたのほうがオフィス内、詳しくないですか? 一緒に確認したほうが」
「すいません、私、派遣社員でしょう、こっちの階にはあまり来たことがないんです。それにもしトイレのほうにいたら、そっちを探している間に勘付かれて逃げられてしまいますから」
 視線を戻し、黒深は歩みを再開する。諦めた警備員の姿がドアの向こうに消えた。
 どうする? どうする?
 相手は黒深しかいない。体力的に、組み伏せられない相手じゃない。いや、正当防衛なんだから、素直に自首したほうが得か? でも過剰防衛と判断されたら? 仕事は続けられるのか? クビになったらどうする?
「木村さん、でてきませんか」
 男性用トイレの前に立つ黒深が、小さく声をかける。
 身体中の緊張が、一気に抜けていくのを感じた。
 頭の中が真っ白になる。
 へたへたと倒れ込んでしまいそうだ。
「いるんでしょう? こっちから行きましょうか?」
 足が勝手に動いた。最後に姿を見てから三十分も経っていないはずなのに、黒深の姿がひどく懐かしいもののように見えた。
「ど……どうして?」
「どうしてわかったか、ですか? カマかけてみただけです。殴られでもしたら損ですから」
「いや、どうして僕だと」
「フィットネスクラブに通ってる男性を、八千草さんが絞殺できますか?」
 あ、そっか。
「一緒に下へ行きましょう。ああ、ちょっと待っててください」
 回れ右し、黒深はスタスタとオフィス入口に戻っていく。扉から中の様子を伺い、恐らく警備員が見ていないのを確認したのだろう、死体の胸ポケットを探ってなにかつまみあげた。カードキーのようだ。プラスチックケースに入っていない、そのままのカード。
 続けて下半身のほうに屈み込むと、恐らく尻ポケットからだろう、ハンカチらしきものをつまみだした。
(アレ?)
 折り畳まれていたハンカチが黒深の指先で少し広がる。
(見覚えがあるような……)
 小泉とは毎日のように顔を合わせているのだから、ハンカチの模様に見覚えがあっても不思議ではないはずだが。しかし、どこか違和感がある。
「トイレ、誰もいませんでした。私、警察が来るまで、四十一階で待ってますから」
 オフィス内に大きめの声で黒深が呼びかける。行きましょう、と目で私に合図しながら、エレベーターに向かう。下へのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。
 木村が小走りにエレベーターへ駆け込むと、黒深がカードキーを差し出した。
「ハイ、これ」
「エ? これって、小泉さんのを?」
「説明はひじょうに複雑で難しいんです。後で話します。とりあえず預かって下さい。それと、あなたのカードキーを私に」
「はあ」
 言われるままにカードキーを受け取り、自分が胸ポケットにしているほうのカードをケースから外して差し出す。
 黒深が四十一階のボタンを押す。エレベーターの扉が閉まった。
「下についたら、私がドアを叩いて八千草さんを呼んで、内側から開けてもらいます。木村さんは、ちょうどトイレからでたふりをして一緒に入って下さい」
「カードキーの記録を残さないようにですね……て、あの、黒深さん、僕は正当防衛で!」
「わかってます。木村さんは人を殺せるような人じゃない」
 黒深が微笑む。細い目を更に細めて、目尻の皺を更に深くして。
「中に入ったら、二人でそのまま休憩コーナーへ。そこで話しましょう、いいですね?」
 引き込まれるように木村はうなずいていた。エレベーターが到着し、扉が左右に開いた。