つまるところ要するにいいですか以上のことからありえる唯一の最終的な結論として――。
小泉夏夫こいずみ なつおを殺したのは、八千草やちぐさリサしかありえないんです」
 水性マジックペンにキャップを被せ、山田はホワイトボードにそれを戻した。
「ンー」
 六人掛けテーブルにドカッと両足をのせ、五本足ビジネスチェアのリクライニングを目一杯倒し、天井の白色蛍光灯を仰いで背もたれをギシギシ揺らしながら、斉藤はわかったようなわからないような声をあげた。
「わからん」
 わからない声だったようだ。
「エート……」
 肩を落とし、言葉を途切らせながら宙に視線をさまよわせる。
「勘違いすんな」
 テーブルから足を下ろし、もぞもぞと座り直す。上半身を斜めに背もたれに預け、物憂い瞳で山田の顔をみあげる。
「俺はお前の話、わかってる。だがな、いまの話、会議で説明しなきゃならんのだぞ。その説明じゃな、複雑すぎてわけわからん」
「あの、例えば、どの辺がわかりにくかったでしょうか」
 おかしいな、と山田は思った。小学生の頃、子供向けジュブナイル翻訳の推理小説を何冊も読んだ。いまだかつて名探偵の謎解きを、わけがわからないからもう一度最初から繰り返してくれ、などと命じた登場人物がいただろうか? どんなに根拠曖昧だろうが演技過剰だろうが、黙って拝聴し興奮し驚愕し絶賛し、膝を打ってフムフムとうなずいていたように思うのだが。
「だいたいな、現場の階に入室記録があったのは、あのクロブカとかいう爺さんと、木村きむらっていう若造の二人しかなかったんだろ?」
「クロブカじゃありません、黒深くろみです」
「そうそう、黒深。なんだって被害者の小泉と、リサリンの入室記録がないんだ?」
 リサリン。いやいや、八千草リサ。黒のパンツスーツに白のワイシャツ、くっきりした眉に意志の強そうな瞳、仕事できます恋もできますな明朗美人。
 知りません知りません、ずっと仕事してました残業続きなんです誰が好きこのんで休日出勤なんかするもんですか忙しいんです帰れるのいつですか刑事さん独身? なにを訊いても動揺のそぶりすらなかった。あのハキハキした物言いは、とても部下を絞め殺した直後とは思えない。いや、今にして思えば、態度が堂々しすぎていたようにさえ思えてくる。
「いや、ですからそこでカードキーの使用記録がですね」
「繰り返させんな、俺はわかってるっつうの。なんでリサリンが犯人に絞られるのか、そこが複雑すぎなんだよ。俺じゃなくて、会議で報告するときと同じ気持ちで話せよ」
「わかりました。もう一回、初めから説明させてください」
 聞こえないよう小さく溜息をついて、山田は再びマジックペンを手にとる。

 残暑厳しい九月初めの日曜日。港区品川、五十階建てガラス張りの高層オフィスビル。男性の他殺死体を発見した、とビルの警備員から通報があったのは真昼のことだった。
 そして数時間後。現場検証も、主な関係者への事情聴取も終了。山田と斉藤は捜査本部での報告内容をまとめるべく、犯行現場のひとつ下の階に借用した打合せコーナーで、ぐだぐだと意見交換を続けていた。
 ぐだぐだと。そう、いつもなら打合せることなどない。さっさと捜査本部に行き、調査で得た事実を管理官および他の刑事達にありのまま報告するのみだ。二人きりでコソコソ検討するようなことなどない。しかしどういうわけか、山田が犯人を特定できたと主張し、おう説明してみやがれとテーブルに両脚をのせて斉藤がふんぞり返り、かくして夕闇に包まれたオフィスビルで長々と推理談義が続けられることとなった。
「被害者を発見したのは警備員の山川。本日十二時三十七分、四十二階オフィス入口ドアが開きっぱなしになっているという警報が鳴りました。これを受け、確認しに行った山川と、たまたま同行していた黒深永五郎えいごろうとともに、四十二階で小泉夏夫の死体を発見しました」
 死体が発見されたのは四十二階。ここと、そのひとつ下の階は株式会社ビットスタートが借りている。川崎に本社がある社員数二百人超の中規模な会社だ。商用ウェッブサイトから大学のカリキュラム管理システムまで、幅広くシステム開発を請け負っている。
 被害者の小泉夏夫は別の小規模なシステム開発会社、大木情報通信社から、請負契約で黒深永五郎とともにビットスタート社へ派遣されていた。
 ビルの管理事務所には、予め四十一階について休日出勤に備えた空調の利用申請がされていた。実際に出社したのは四名。ビットスタート社の社員、八千草リサと木村たけし。そして大木情報通信社の派遣社員二名、小泉夏夫と黒深永五郎。
「三十秒以上開きっぱなしだと、警報が鳴るんだったな?」
 椅子を揺らしながら問う斉藤に、山田がうなずく。
「そうです。大きな音ではありませんがアラーム音が鳴りますし、同時に一階の警備員室でも、それとわかります」
 平日なら、いちいち見に行ったりはしないんですがね。額にハンカチをあてながら、三十二才の警備員山川はそう答えた。冷房は効いているのだから、緊張のせいだろう。
 ほら、今日は日曜ですし。それに四十二階は申請がなかったフロアだったんですよ。別にかっちり規則がある訳じゃないんですがね、虫が知らせたのかな。座りっぱなしが苦手なたちなんで、確認してみることにしたんです。
「一階の警備員室から奥にあるエレベータホールへ移動する途中、西側非常階段から黒深が現れました」
 マジックペンの蓋を取り、ホワイトボードに貼り付けた一階見取り図に、二度目の線を引く。
「エート、どうして非常階段から現れたのは理由がややこしいですから、後に回しましょう。黒深は山川と顔なじみで、声をかけ、事情を知り、二人して四十二階まで様子を見に行くことになりました」
「爺さん、暇だったんだな」
「四十二階に到着し、二人はフロア入口に倒れていた被害者、小泉夏夫を発見しました。小泉は頭をエレベーターホール側に向けて倒れており、腰の位置でドアに挟まれていたため、片開きのドアが閉じるのを防ぐ結果となっていました。この状況からすると、被害者は首を絞められ意識を失った後で偶然ドアに挟まれた状態となり、三十秒経過の後に警報が鳴った可能性が高いと思われます」
 眼を見開いていた小泉夏夫の顔が脳裏を過ぎる。黒のスラックスに、パステルカラーの縞模様が入ったポロシャツ。背が高く、手足も長い。モデルのような体型に日本人離れした彫りの深い顔で、それがクロールするように身をよじらせ倒れている姿は、ハリウッド映画のようにさまになっていた。まあ、ハリウッド映画に登場するプログラマといえば、デブか長髪のはずだが。
「被害者が誰かを呼ぼうとして、ドアの間にわざと入り、警報を鳴らしたのかもしれんな」
「そうですね、最悪、明日の朝まで誰も気付かなかった可能性もありますし。あ、違うか、警備員が定期巡回しますから、今夜にでもみつかっていたかもしれませんね。後は、犯人がわざと被害者をドアの間に運んだという線も、可能性だけならありますが。まあ、検死でなにかわかるかもしれません」
 マジックペンで四つの名前をぐるりと囲む。
「まず十時前後に木村武と黒深永五郎が出社、そして十二時過ぎに八千草リサ、小泉夏夫が出社しました。各フロアには専用のカードキーがなければ入室できず、従って殺害が可能だったのは被害者の小泉を除く三人に絞られる、と断言してほぼいいでしょう」
「他の階にも休日出勤してる奴らがいただろ? 警備員ならマスターキーを持ってたんじゃないか?」
「ウーン、今後の捜査で、被害者と個人的なつながりを持つ者がみつかったら、ありえるかもしれませんね。現場の状況からすると、衝動的な犯行と思われます。そもそも計画的犯行なら、こんなセキュリティの整った、容疑者が簡単に限定されるビル内でやらないでしょう。とりあえずはこの三人に絞ることを前提にさせてください」
「ま、いっか。オーケイ、続けて」
 椅子の後ろ前を逆にし、馬に乗るように大股を広げて背もたれを抱くようにし、斉藤はだらりと腕をぶら下げている。
「そして三人のうち、黒深は犯行が不可能でした」
 ここからだ、ややこしくなるのは。右手の人差し指をこめかみにあて軽くうつむき数秒考え込む。顔を上げ、四十二階の見取り図を指し示した(各階平面図参照)。
「まず、カードキーとドアの施錠について説明します。非常階段がふたつあります。ひとつは東側で、エレベーターホールに通じています。もうひとつは西側、こちらはオフィスに直接通じています。二つの非常階段と、エレベータホールからオフィスへの入口、計三つのドアが各フロアにあるわけです」
 ドアは曇りガラスが嵌め込まれ、向こう側がぼんやり透けて見える。これは、ドアを押し開けたときに人がいると、ぶつかって怪我をする危険性があるためだろう。ドアの脇にパネルがあり、これにカードキーを近付けるとセンサーが感知し、解錠される。
「ドアを開け、部屋に入り、閉めると自動的に施錠されます。別に開けなくても時間が経てば自動的に施錠されます。障害物が挟まるなどしてドアが三十秒以上開きっぱなしになると、アラーム音が鳴って警備員室でもわかります。カードはそれぞれに固有のIDがありますから、どのカードによって解錠されたのかは記録が残ります。ただ、あくまで記録に残るのは解錠操作だけです。例えば一人がカードキーを開けて、別の者が一緒に入ればその人は記録を残すことなくオフィスに入れるわけです」
 胸元のポケットに提げたカードキーを山田は指先でつまみ、軽く持ち上げた。警備員からゲスト用に受け取ったものだ。プラスチック製の透明ケースに入っており、クリップによりケースごと留められるようになっている。見た目は銀行やデパートのカードと変わりはない。デザインは素っ気なく、右下隅にかなり小さな文字でゲストと書かれている。恐らく社員用にはここに名前や会社名を記載するのだろう。
「後は、内側から招き入れるかだな」
「そうです、内側からはカードキーを使う必要がありません。直接、ドアにあるつまみを捻れば鍵を開けることができます。オフィスからエレベーターホールか西側の非常階段にでるとき、そしてエレベーターホールから東側の非常階段にでるときはカードキーが不要です。例えば、最初からオフィス内に人がいて、その人に開けてもらえば記録を残すことなくオフィスに入ることができます」
 木村武を事情聴取したときのことを思い出す。丸いパッチリした眼の童顔で、洗いざらしのジーンズにアロハシャツの出で立ちを見たときは、アルバイトの大学生かと思った。ひどくおどおどして、シャツの合わせ目に留めたカードをしきりにいじっていた。恐らく不審者の侵入を防ぐ対処だろう、社員証を一緒にケースに入れている。社員証は顔写真入りで、そちらのほうを表に向けることで、怪しい者ではないことを示すのだろう。
 クリップだけでなく、木村は首にストラップをかけていた。ストラップの先がカードを収めたケースにつながっている。会社名が入っており、どうやら無料で支給されるものらしい。八千草も、被害者の小泉もかけていた。リラックスさせようと思い、どうしてストラップとクリップで二重にカードを留める必要があるのか訊いた。
 いやあ、背広の上着にカードを留めていると、うっかり上着ごと席に置き忘れたりするんで。クリップで留めるのは、手を使わずに鍵を開けるためです。ほら、パネルの位置がちょうどこの高さなんですよアハハと木村は気の抜けるような笑い方をしていた。
「さて、これを踏まえて。先程少し触れましたが、なぜ黒深が非常階段から現れたのか説明します。なんというか、妙な感じの話なんですが」
 ホワイトボードの前を移動し、時刻と名前の列をマジックペンで指す(カードキーの使用記録と各人の行動表参照)。
「カードキーの使用記録から、事件に直接関係があると思われるものだけ抜き出しました。先程も言いましたが、十時前後に木村と黒深がそれぞれビルに入館しました。平日は正面入口から自由に入れるんですが、土日は通用口から入って警備員室の前を通ることになります。この通用口もカードキーが必要で、二人とも記録が残っていました。四十一階で二人は業務をこなし、十二時過ぎ、昼休みですが、木村武は昼食を済ませ自席で昼寝を始めます。休日に限らず、それが習慣だそうです」
「若いのに」
「アロハなのに。十二時十五分、八千草リサが出社、四十一階に到着します」
「リサリン登場!」
 眠たげにしていた眼をカッと見開き、背もたれをつかんで斉藤が乗馬でもしているかのように椅子を揺らす。この人は確か、憧れの警視庁捜査一課からきた人なんだよなあと思いながら、山田は何事もなかったかのように言葉を続ける。
「このとき木村はいったん目を覚まし、八千草と黒深が西側の非常階段にでるのを見ています。非常階段には窓があるんですが、天気がいいと稀に富士山が眺められるそうで。そして西側非常階段のドアを開けて八千草はオフィスに戻り、小泉も昼寝を再開しました。ところが、黒深は戻ってこなかった。戻ってこれなくなっていたんです。カードキーを自席に置き忘れて」
 やっぱり私も紐をつけとけばよかったですかねえ。そう言って黒深は胸元に留めたカードキーを指で弾いた。明るいブラウンを基調としたポロシャツとジャケット、コットンパンツ。痩せており、立っていても座っていてもピンと背を伸ばしている。白いものが混じった髪、眠そうな細い眼で霞のかかったようなしゃべり方をする。五十二才のはずだが、どうも話していると七十代を相手にしているような印象を受けた。
 正直、びっくりしましたよ。なにか方法があるんじゃないかと考えたんですけど、ないんですよね。非常口のドアからは角度的に壁が邪魔して、八千草さんも木村さんも見えませんでした。お二人ともデスクがエレベーターに近いほうにありますし、私のいた非常階段には背中を向ける状態でしたしね。ドアを叩いてみたりもしましたけど、やっぱり聞こえないみたいでした。運が悪いことは重なるもので携帯電話も置き忘れてましたから、連絡のとりようがなかったんです。小泉君が来ればなんとかなるかと思いましたが、ああ、小泉君と私の席ならもっと非常階段寄りにあるので、気付くかなと。ただその直前に携帯で彼と話をしてたんですよ。ハッキリ聞いたわけじゃあないんですけど、まだ来ていないようだったので、これは待っていても来ないかなと。ホント迷ったんですが、ええい、しかたがありません。降りましたよ、四十一階分。いやもう、このビルで火事が起きようが地震が起きようが、もう非常階段はゴメンですね。
「これが平日なら、誰か通りかかるの待つなり、別の階のオフィスに頼み込んで助けてもらうこともできたでしょうが、休日ですからねえ。どの階に人がいるか黒深にはわかりません。外付けじゃなくてビル内の非常階段ですから、手を振っても誰にも見えない。となると、降りるしかありません。非常階段からでられるのは、オフィスがない一階だけです。ここ以外はどの階もカードキーが要ります。なんだか理不尽な感じがしますが、黒深は四十一階のオフィスに戻るために、非常階段をわざわざ一階まで下りなければならなくなったわけです」
「最新セキュリティシステムの落とし穴ってわけだ」
「これで黒深が途中で心臓麻痺にでもなっていたら、労災対象になるか揉めたかもしれませんね。一階分だけ走って降りるなら十秒もかからないでしょうが、四十階分です。一階辺り平均十五秒としても、十分です。八千草リサが非常階段からオフィスに戻ったのが十二時十七分、そして四十二階で開きっぱなしのドアが警報を鳴らしたのが十二時三十七分ですから、黒深は約二十分かかっています。まあ、お年寄りで急がず慌てずだったのと、最初に逡巡したり途中の階で一休みを入れたりしたので時間がかかったんでしょう」
「で、一階に下りたら、ちょうど警備員と鉢合わせってのがな。なんか、うますぎる気がするんだよな」
 顔を斜めにして眉を寄せる斉藤に、山田がハアとうなずく。
「いや、でも黒深のアリバイは固いと思いますよ。実測したとおり、エレベーターで四十二階から一階まで移動するには、一分近くかかるんです。山川も、警報が鳴ってすぐに警備員室をでたと証言してますし」
 ドアが開きっぱなしだと、三十秒で警報が鳴る。仮に黒深が四十二階で小泉を殺害し、ドアに死体を挟んだ状態にしたとすると、三十秒ちょっとで一階へ降りたことになる。しかしエレベーターを使っても降りるのには一分近くかかり、間に合わない。
 非常階段を下りるのに二十分かかったというのが嘘で、実は十分程度で下りてから四十二階へ上がっていたのだとしても、開け放しのドアが三十秒で警報を鳴らすという制限から、黒深のアリバイは成立する。
「そこがな、なんかトリックで、どうにかならねえかな」
「例えば?」
「黒深がスゲえプログラマーで、警備システムに侵入してドアの警報が鳴る時間をもっと長くしたとか。ミニロボットを遠隔操作して、ドアを開けるのと死体を運ぶのやらせたとか」
「それじゃ、なんでもありですよ」
「要は、四十二階から一階まで、エレベーターより早く移動すればいいんだろ? 簡単な方法があるだろうが。まず屋上に行ってだな、勢いよく助走をつけて」
「死にますって。そもそも、屋上にはあがれません」
「実は双子が」
「話、続けますよ?」
 低レベルながらもミステリらしい仮説検討の楽しさに心躍る気持ちを、刑事山田は涙を呑んで、冷たい表情で押し隠すのであった。
「さて、黒深には犯行が不可能でした。従って八千草リサと木村武のどちらかが犯人となります。黒深が非常階段を下りている間に、この二人と被害者の間でなにがあったのか?」
 カードキーの使用記録をマジックペンで指す。
「まず、八千草の証言から。十二時二十二分、四十一階に小泉が出社します。このとき木村はまだ昼寝を続けていたとのことです。小泉は八千草と軽く挨拶を交わし、奥の休憩コーナーに入っていきました。その後、八千草は業務に没頭しており、小泉がいつ四十二階に移動したのか気付かなかった。そして正確な時刻は不明ですが、八千草リサはトイレに立ち、十二時三十七分、オフィスにまた戻ります。ちょうど四十二階で開けっぱなしのドアが警報を鳴らしたときです。オフィスに戻ると、昼寝していたはずの木村の姿がありませんでした。そして数分後、黒深がオフィス入口のドアを叩くので開けてやった。黒深は四十二階で死体を発見した後、エレベーターで下の階に下りたとこだったんですね。ちょうどそのとき、トイレからでてきた木村も入れてやった。以上が八千草の証言です」
 マジックペンの尻で、こめかみをつつく。
「次に、木村の証言。こちらも正確な時刻は不明ですが、昼寝から目を覚ましたとき八千草は席にいなかったそうです。小泉のことは来ていたこと自体気付いてなかった。で、木村もトイレに行き、用を足した。トイレからでた後、ちょうど八千草によってドアを開けてもらった黒深がオフィスに入ろうとしていたので、一緒に入った。一応、八千草リサの証言と矛盾がありません」
 スッと息を吸い、気合いを入れる。ここからだ。
「問題は」
「どちらかが嘘つきってことだな」
「はい。どちらかのトイレが嘘で、その間に小泉を殺害したと考えるしかありません。まず、木村武を犯人と仮定してみましょう。その場合、八千草リサが嘘をついていると考える必要はないですから、木村武は小泉が来るまで昼寝していたと考えられます。八千草リサがトイレに立ったときに目が覚め、四十二階に上がり、小泉を殺害した。ここで問題になるのが、木村はいつ四十二階に行ったのか、ということです。四十二階の入室記録は二つあります。ひとつは十二時二十三分、もう一つはその十二分後、十二時三十五分です。パッと見た感じ、木村のカードキーが使われているのですから、二十三分のほうだと思いたくなります。が、それはありえません」
 マジックペンを指でクルリと一回転させる。
「木村武を犯人と仮定した場合、八千草リサは嘘をついていないはずです。小泉が来たのが十二時二十二分、そのわずか一分後の二十三分に四十二階へ木村が行ったのなら、八千草が覚えているでしょう。となれば、木村は十二時二十三分ではなく、三十五分に四十二階に行った。黒深が非常階段を下りるハメになった原因は、カードキーを置き忘れたからです。オフィスには黒深のカードキーが置き去りにされていた。木村はそれを盗んで四十二階に行った」
「そしたら小泉がそこにいたと」
「ええ、十二時三十五分のほうが木村なら、二十三分のほうは小泉に違いありません。小泉は十二時二十二分に四十一階に顔を見せた後、実はそのまま西側非常階段を使って四十二階に上がった。なにかよからぬことをしていて、それを木村にみつかり、カッとなって殺害しようとして返り討ちにあったなどというシナリオが考えられます、が、実はこれは成り立ちません」
「……なんでだったけ?」
 オイこら、お前はわかってるんじゃなかったのか。
「小泉は、木村のカードキーを盗む機会がなかったからです。十二時二十三分、四十二階の西側非常階段へ侵入した何者かは、木村のカードキーを使用していました。しかし木村は、八千草リサの隣の席で昼寝をしていました。寝ている木村に小泉が近付きカードを盗んだりすれば、八千草リサが当然気付いたでしょう」
 口元を手の平で覆うようにして、斉藤はトロンとした目でホワイトボードを見上げている。やばい、説明を急ぎすぎただろうか。
「エート、その、つまりですね、リサリンさんの証言をそのまま信じると、十二時二十三分に四十二階に上がったのが誰なのか、わからなくなるわけです。小泉は木村のカードキーを盗む機会がなかった。木村は昼寝していたことを八千草自身が証言している。となれば、残された唯一の結論は明らかです。八千草リサが嘘をついていた」
「ムー」
 背中を丸め、椅子の背もたれに顎を突き、斉藤はわかったようなわからないような声をあげた。
「まあ、なんとなくわかった気がする」
 ホントか?
「話を続けます」
 斉藤の顔から目を逸らし、山田はホワイトボードに向き直る。もう、残りは一気にまくしたてて、無理矢理わかった気にさせてしまおう。
「八千草リサが犯人と仮定します。すると今度は逆で、木村武は嘘をついていない。本当に昼寝していて、目が覚めてトイレに行っただけだった。昼寝している木村から、カードキーを盗めたのは八千草リサです。十二時二十三分、木村のカードキーを使って八千草リサは四十二階に上がった。そして十二時三十五分、黒深のカードキーを盗んだ小泉が四十二階に上がった。なにかよからぬことでもしていたのか八千草は小泉を殺害、エレベーターで四十一階に戻ります。それが十二時三十七分」
「ウー」
「ちなみに、黒深のカードキーは四十一階に戻されていました。黒深も、それが誰かに使われたとは思わなかったそうです。木村のカードキーも木村自身が持っていました。これは恐らく、カードキーの盗難を隠蔽するために、八千草が戻しておいたものと思われます。黒深のカードは小泉から奪い、木村のカードはまあ、我々が来るまでの間にドサクサに紛れて、ですかね。というわけで!」
 にこやかな笑顔で振り返り、斉藤の顔を見下ろす。
「つまるところ要するに以上のことからありえる唯一の最終的な結論として、小泉夏夫を殺害したのは八千草リサしかありえないわけです! どうです? 理解できました?」
 不気味な静寂があった。沈黙のまま、山田は待つ。
「ンー」
 瞼を細め、斉藤はホワイトボードを睨み、わかったようなわからないような声でうなる。
「わからん」
 かくして、刑事達のミステリアスな夜は更けてゆくのであった。