まずは作品紹介

 東野圭吾『容疑者Xの献身』は今年の九月に刊行された。いまは直ってるけど、初めの頃は紙質の問題でカバーに指紋がベタベタついて凄く話題騒然だった、のは事実だけどどうでもええ。

 帯が印象的。表紙側には「運命の数式。命がけの純愛が生んだ犯罪。」、裏表紙側には「これほど深い愛情に、これまで出会ったことがなかった。いやそもそも、この世に存在することさえ知らなかった。[引用者註:ここで一行空いてる]男がどこまで深く女を愛せるのか。どれほど大きな犠牲を払えるのか――。」と書かれている。
 なんだか恋愛小説みたいなキャッチコピーだけど、タイトルの「献身」の正体について、犯人の常識を越えた想いと、ミステリとしての発想の凄さが話題となり、ついには探偵小説研究会=編著『2006本格ミステリ・ベスト10』、別冊宝島編集部『このミステリーがスゴイ! 2006年度版』、週刊文春「週刊文春ミステリーベスト10」でのトリプル1位となった。

衝撃の献身

 さてさて、その武田信玄、いやいや献身がなんだったのか要点だけ説明しておこう。

 大学ではその優秀な頭脳を認められていた石神哲哉、けれど家庭や環境の問題で高校の数学教師になるしかなかった。恋人もなく独身のまま、生徒から数学なんて必要ないと小馬鹿にされたりしながらも、ライフワークと決めた数学の問題に取り組む日々を送っていた。
 そんな石神にも楽しみにしていることがあった。アパートの隣人で、弁当屋に勤めている花岡靖子。その日の朝も、高校に向かう前に石神は弁当屋に寄り、靖子の笑顔に心癒された。
 一方、靖子のほうには問題が起きていた。暴力をふるわれ離婚した元夫、富樫慎二が現れたのだ。アパートにまで押しかけ復縁を迫る富樫。なんとか帰らせることができたと思った瞬間、靖子の一人娘で高校生の美里が、富樫の頭に花瓶を振り落としてしまう。
 争いの果てに富樫を殺してしまった花岡親娘。困り果てた二人に、様子を察した石神が救いの手をのばす。「私を信用して下さい。私の論理的思考に任せてください」

 三月十一日、旧江戸川の堤防で身元不明の死体がみつかった。顔を潰され、指紋を焼かれた死体。死亡推定時刻は三月十日の午後六時以降。行方不明になっていた富樫が借りていたレンタルルームの毛髪や指紋が一致し、警察は死体が富樫だと判断する。
 花岡親娘のアリバイが調べられた。けれど、映画を観に行っていたという二人のアリバイは自然で、裏付けもとれて揺らがない。

 物理学科の助教授、湯川学は知り合いの刑事、草薙を通じて石神のことを知る。大学時代、二人は親友だったけれど、数学科と物理学科に進路が別れてから二十年以上音沙汰がなかった。
 再会し、懐旧を暖める二人。しかしそのとき、湯川は些細なことから石神が靖子に思いを寄せていることに気付く。石神が靖子のために殺人を隠蔽しているとしたら。自ら事件を調べ不審点をみつけるが、花岡親娘のアリバイは崩れない。
 湯川の態度から石神のことを怪しんだ草薙刑事は、学校へ聞き込みに訪れる。ふとした雑談の弾みで、石神は試験問題を作るコツを語った。思い込みによる盲点をつくだけです。例えば幾何の問題に見せかけて関数の問題とか。
 草薙刑事を通じてその言葉を知った湯川は、真相に気付く。石神に警告する湯川、しかし石神は謎の言葉を残して立ち去る。「自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確かめるのとでは、どちらが簡単か」「おまえはまず自分で答えを出した。次は他人が出した答えを聞く番だな」

 石神は警察に自首する。
 富樫を殺したのは自分だ。愛する靖子のために自分が殺した。
 苦悩の末、湯川は靖子に真相を打ち明ける。彼がどれほどあなたを愛し、人生のすべてを賭けたのか伝えなければ、あまりにも彼が報われない。

 江戸川の堤防でみつかった身元不明の死体は、富樫ではなかった。本当の富樫慎二が殺されたのは三月九日、石神によってバラバラに切断され隅田川に投棄されていた。
 堤防でみつかったのはまったく別人の死体、石神によって偽装されたホームレスの死体だった。
「石神はあなたを守るため、もう一つ別の殺人を起こしたのです。それが三月十日のことだった。本物の富樫慎二が殺された翌日のことです」

竜彦の如く容赦なく

 刊行直後からミステリ系サイトのあちこちでこの小説は評判になっていて、いつもならハードカバーをできるだけ買い控える僕も「流行に遅れちゃう!ナウでヤングでトレンディにならなきゃ!」と手にしてみた。

 読み終わったとき思ったのは「まあ、確かに絶賛されるだけのことはあるけど、石神の書き方がなあ」というものだった。
 比較として思い出したのは滝本竜彦『NHKにようこそ!』。ひきこもり青年をユーモアとペーソスを交えて描いた作品で、そのユーモアとペーソスは笑っちゃうしかない悲惨な日常と泣いちゃうしかない滑稽な人生を飾ることなくみつめる視線から来るものだった。
 滝本竜彦に限らず最近は「ちょっとダメなボクの人生」をダメなままありのまま描こうとする物語を目にすることが多くて、そういうのを面白がってた僕は石神に「ヌルイぜ」と思ってしまった。風呂上がりに部屋の中を下着姿でうろついて一人でお笑い番組を観ながらアハハ~と笑った後でフーッと溜め息ついてたりせんのかい!

 ぶっちゃけ、愛する人のためならホームレスの一人くらい殺っちゃうぜ、というサイコさんのほうが、ストーカーより怖いしね。
 慌てて付け加えると、こんなのはもちろん余計なご意見というものだ。たまたま滝本竜彦を読んでた僕が悪いのであって、とどのつまり諸悪の根元は滝本竜彦なのです!嘘! ゴメンナサイ!
 こういう「ないものねだり」は、書評としてはダメだと思う。もちろん感想としてならいいけど、「書物の評価」としてはダメ。勝手に期待してたものがなかったから面白くない、というのはフェアじゃない。

 ただまあ、それでも強いて言うと、石神が花岡親娘を見初めたシーンは小説としてちょっとなあと思う。数学を思う存分できないから自殺しようとした、そのとき引越の挨拶に来た花岡親娘になんかようわからんけど感動して自殺をやめたっていうシーンね。
 これは唐突すぎる。あまりにも唐突すぎる。「なんか石神がここまで思い詰めた動機がわかりにくいな、よっしゃ、シーン追加しちょいたろ」という作者の声が聞こえてきそうだ。
 石神の数学への熱意は充分に描かれてる。だから数学ができなくて自殺するという動機は納得できる。石神の純粋な性格も描かれてる。だから花岡親娘を見初めて自殺をやめたのも納得できる。
 それでも、この自殺のシーンは唐突すぎる。予め伏線を置いて説得力のあるものにしてほしかった。この物語において最重要なシーンのひとつなのだから、もっと慎重に書いてほしかった。こんなラストぎりぎりで言い訳のように突然でてきていいシーンじゃない。

 だから、もっともっと石神のダメ人間描写を追加してですな、孤独な独身男がどんなに社会から阻害され迫害され危険視されているか重厚に書きつづってですな、「エーイ、これはNHKの陰謀だ! もう死んでやる!」「エ? お隣、こんな美人親娘が越してきたの?」「も、もうちょっと頑張っちゃおっかな!」てなふうに、愛される変態として華々しくキャラを立てるべきだったと思いませんか! そうしてれば、東野圭吾は新境地に到達したと更に話題になってたかも! ヤー!

 ただいま東野圭吾先生に対して大変失礼な発言があったことを深くお詫びいたします。

マイナスの叙述トリック

 とまあ、石神のキャラ萌え描写には不満を感じていたのだけど、本格ミステリとしては「論理的だなあ。まっとうだなあ。本格だなあ」と素直に喜んでた。
 ところがどすこい。読書系オフ会で、まきまきさんの感想を聞いて、僕は途轍もない見落としをしてたことに気付いた。

 石神がもうひとつの殺人をしていたことが描写されていなかったのが不満でした。
 まきまきさんのその言葉を聞いたとき、僕は頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになった。はて? さて? なんのことでせう?
 つまり、どうせ叙述トリック使うなら、もう一つの殺人のところもきちんと飛ばさず書いて、その上で読者を騙さないと、というご意見だった。ああ、そっか、そうか、そうですねえ。

 ……え?
 あれ? あれれ?
 もしかしてこれ、叙述トリック?
 『容疑者Xの献身』って、叙述トリック作品だったの?

 『神様ゲーム』のときにチラッと書いたけど、叙述トリックとは大事な情報をあえて明示せず読者を勘違いさせる手法のことで、例えば「手首のブレスレットをなでながら、カオルは溜め息をついた」なんて書いといて、実はカオルは男性だったなんていうトリック。普通のトリックは犯人が探偵役を騙すものだけど、叙述トリックは作者が読者を直接騙してしまえることに特徴がある。
 『容疑者Xの献身』は富樫が殺された場面のすぐ後に、堤防でみつかった死体の場面が来る。本当は一日の空白があったのに、二つの場面が時間的に近いように読者は思い込まされてしまったのだ。
 ウーム、確かにこれは立派な叙述トリック。どうして気付かなかったんだろう?

 そりゃお前の目が節穴だからだ、という大変ごもっともなご意見はありがたく拝聴するとして、つらつら自分の読書遍歴を思い返してみるに、どうも僕は叙述トリックに対する思い込みがあったらしい。
 叙述トリックは、語り手が意図的に読者に対して大事な情報を伏せていることも叙述トリックに含めるなら、ミステリの始祖と呼ばれるエドガー・アラン・ポーの短編にだってある。ただ、この技法に注目が集まったのはなにより「新本格」だろうと思う。
 新本格てのは、もとは講談社ノベルスのキャッチコピーで、1980年代後半から始まった本格ミステリ出版ブームの代名詞になった。それまで本格ミステリというと「名探偵がいて、殺人事件が起きて、謎解きがあって」というステロタイプなイメージが強かった。とゆうか、本を読んでない一般の人には本格ミステリのイメージって今でもシャーロック・ホームズとか金田一耕助なんだろうけど。
 けれど、この新本格から「謎解きの瞬間、それまで信じていた世界が崩壊するような驚愕を味わった」という感想の作品が増えた。それまで本格ミステリって「ロジック」か「トリック」が面白さの中心だったのだけど、そこに「マジック」という新しい要素が加わった、と大雑把に理解してね。

 つまり、叙述トリックは読者を驚かせることが目的だった。謎解きシーンで「ああ、そうか! Aだと思い込んでたけどBだったのか!」という感想を抱くのが普通だった。
 ところが、『容疑者Xの献身』ではこの驚きがあまりない。「ロジック」が面白さの中心にあるように感じて、「マジック」の印象がない。
 どうしてか? それは多分、新本格で盛んに研究された叙述トリック作品が「ダブルミーニングによるプラスの叙述トリック」が多かったのに対し、『容疑者Xの献身』は「視点の特異さによるマイナスの叙述トリック」だったせいだと思う。

 さっき例に挙げた「手首のブレスレットをなでながら、カオルは溜め息をついた」という例文は、「ブレスレット」「溜め息」という言葉のイメージが、「カオル」という男性でも女性でも有り得る名前を女性と思い込ませていた。
 つまり、二重に意味のとれる記述(=ダブルミーニング)があって、余計な付加情報で誘導することで誤解させる。これがダブルミーニングによるプラスの叙述トリック。
 新本格ブーム時の叙述トリック作品では、謎解きシーンで「ああ、そうか、ここの文章はAだと思ってたけどBだったのか!」とダブルミーニングなとこが鮮やかに頭の中で蘇る。これが「世界が崩壊したような驚き」につながっていたと思う。

 それに対し、『容疑者Xの献身』はダブルミーニングな文章がない。むしろ逆で、情報が省略されている。
 初めのほう、富樫が殺害されたシーンは何月何日のことだったのかが明記されていない。そして空白の一日が省略され、堤防で死体が発見されるシーンに飛んでいる。誤誘導は余計な付加情報ではなく、意図的に動き回る視点によって鍵となる情報が省略されることで成されている。これが視点の特異さによるマイナスの叙述トリック。
 こっちだと、謎解きがあっても「あ! ここで騙されていたのか!」という直接的な記述がなにも思い浮かばない。だから新本格ブーム時の叙述トリック作品のような「世界が崩壊したような驚き」につながらない。

 とまあ、こういう理由で僕には『容疑者Xの献身』が叙述トリック作品だという認識がなかったらしい。
 いや、もちろん節穴だからというのもあるけどさ。

二階堂先生のお言葉

 とまあ、思いもかけない発見に「ああ、オフ会にでて良かったな~」と感謝しつつ、この文章を書き始めたのだけど。
 そのとき、ネットでは大変な事件が起きていたのだ(ゴゴゴゴゴ……)。

 本格ミステリ作家、二階堂黎人のサイト「二階堂黎人の黒犬黒猫館」では「恒星日誌」と題して日記が書き綴られているのだけど、十一月二十八日に『容疑者Xの献身』は本格推理小説じゃない、面白い小説だし良質のミステリーだけど、本格推理小説として優れているという考えは間違っているよ、という意見が書かれた。
 これについて、二階堂黎人のサイトの掲示板はもちろん、2chとかミステリ系サイトで話題になり、それはもういろんな意見が飛び交った。

 さて、二階堂黎人大先生の萌え萌えなトラ娘キャラぶりについては筆を控えるとして(トラ娘=トラブルメーカーッ娘)。
 本当に『容疑者Xの献身』は本格ミステリじゃないんだろうか。ちょっと考えてみよう。

 正確なことは直接サイトの記述を読んでほしいのだけど、簡単に言うと二階堂黎人にとって本格推理小説とは「読者が手がかりと伏線によって論理的に真相へ至れること」がなによりの条件だそうだ。
 ところが、探偵役である湯川の推理は直感的で、物的証拠がなにもない。あくまで「石神が花岡親娘を助けたと仮定すると」こうとしか考えられないというだけ。
 強いて挙げると衣類を燃やし切れていないこととか自転車の指紋が消されていないことの不自然な点が解決するけれど、いくらなんでもたったこれだけの不自然さを解消するには大胆すぎる推理だ。
 なるほど、二階堂黎人の定義に基づけば、確かにこれは本格推理小説じゃない。

叙述トリックの歴史

 とまあ、二階堂黎人の主張は首尾一貫してるわけで、僕としては「フーン、そういえばそうだね」くらいに思ってた。それよりトラ娘ぶりが(以下略)。
 でも、周りの反応はけっこう凄かった。なんというか感情的な反発がとても強くて、二階堂黎人のサイトの掲示板に別の小説家、我孫子武丸が直接意見を書き込む(2005/12/05 21:32)なんてことまで起きた。

 恐らく、これは叙述トリックを巡る暗い歴史が影響しているのだ――(雷鳴と、頭に包帯を巻いた謎の男のシルエット)。
 さっきチラッと書いたけど、叙述トリックの起源自体はけっこう古い。ただ、歴史的に見ると叙述トリックにはふたつの流れがあるっぽい。
 僕の読書量が決定的に不足してるから正確には言えないのだけど、叙述トリックには本格ミステリ系サスペンス系のふたつがあって、それらはとてもよく似てるけど目的が決定的に異なってる。

 例えばウィリアム・アイリッシュの有名な作品は、いま思えばマイナスの叙述トリックだったなあと思う。英米の本格ミステリ黄金時代はやがてハードボイルドとか犯罪小説とかサスペンスとか、もっとリアリティとかエンターテイメント志向に移っていったそうなのだけど、この頃「読者を驚かせるためならなんでもやるぜ」な小説がたくさん生まれたのだそうだ。伝聞調ばっかりなのは不勉強で自信がないからだそうだ。
 これがサスペンス系の叙述トリック。「読者を騙くらかしてアッと言わせてやれ」というのが目的の叙述トリックね。

 その一方で、例えば鮎川哲哉の初期短編に使われている叙述トリックは少し性格が違う。こっちは犯人当て小説(問題編と解答編に分割されていて、問題編を読むだけでそこに記述されている手がかりから読者が本当に名探偵のように事件を推理できるよう配慮された小説)に叙述トリックが使われている。
 つまり「読者に犯人を当てられたくない! よっしゃ、小細工してやれ!」という健全な遊び心から生まれたのが本格ミステリ系の叙述トリックだ。

 本格ミステリ系とサスペンス系、どちらの叙述トリックも別に技法は同じで見分けがつかない。読者は同じように驚く。
 違いはただ一点、その叙述トリックが見抜けるような手がかりがちゃんとあるかどうか。
 サスペンス系はあくまで読者を驚かせること自体が目的だから、どんな卑怯な手だって使う。とにかく意外であれば意外であるほどいい。それに対し本格ミステリ系は、あくまで読者を誤誘導することが目的だから、ちゃんと真相に到達できるよう叙述トリックを見破れる手がかりを埋め込んでおかないといけない。

 この違いが、新本格以降から埋もれて見えにくくなってしまってるのだと思う。
 さっきも書いたけど、新本格の魅力のひとつは「マジック」にあった。だから、それに惹き付けられて新しく入ってきた読者はサスペンス系の叙述トリックも本格ミステリに含むと思い込んでしまっている。
 もちろん、そんなのは当たり前で別に悪いことじゃない。古典を読めという意見だけでも反発があるのに、英米黄金時代から現代に至る、しかもサスペンス小説という他ジャンルにまでまたがる経緯を知ってろなんて言ったらクーデターが始まる。

 でも、知っている人からすれば、それはとても歯がゆいことなのだ。『容疑者Xの献身』には真相に到達するための手がかりがない、つまりサスペンス系の叙述トリック作品であって、本格ミステリ系の叙述トリックじゃない。
 例えばイギリス人が日本に来て「あなたの国は素晴らしいですね! おおらかで、自由が約束されていて、憧れですよ!」と言われたらどう思うだろう。
「それは、もしかしてアメリカのことですか? 私はイギリス人ですよ」
「あ、そうなんですか。まあどちらでもいいじゃないですか!英語しゃべってるし、外国から来たんでしょ?気にしない気にしない!
 こりゃ、ぶん殴られても文句は言えないよね。
 もちろん、『容疑者Xの献身』には「アリバイトリックと思わせて死体のすり替えトリック」という斬新なアイデアがあって、これは明らかに過去の本格ミステリ作品があってこそのものだと思う。ただ、叙述トリックについては二階堂黎人の主張通りサスペンス系に属してる。
 だからまあ、小説の歴史という観点からは、イギリス人とアメリカ人のハーフくらいじゃないかなと思う。

直感はダメ?

 とまあ、一件落着したように思えたのだけど。
 二階堂黎人が主張する本格推理小説の定義が、なんだか気になってきた。

 まず思い出したのがブラウン神父。G・K・チェスタトン『ブラウン神父の童心』は1911年の作品で、エラリー・クイーン『ローマ帽子の謎』が1929年だから、けっこう古い。
 ブラウン神父物は短編集ばかり五作のシリーズになってる。時代を感じさせる文章で凄く読みにくかったけど、発想がとても斬新で古びてない。なんというか説明が難しいけど、誰もが心の中に持っている小さな論理とそのねじれ、逆接がうまくすくいとられていて、それは普遍的で現代でも変わってないんだなあと感心した。

 ブラウン神父シリーズの特徴は、推理がとても直感的なこと。現場を調べて手がかりを集めて論理的に推理を積み重ねて、という手順がない。ただ事件の不思議な謎を、大胆な逆接で思いがけない方向から切り崩す。だから物的証拠とか、いくつも仮説を立てては崩すとか、そういうのはでてこない。
 よく対照的な例として、エラリー・クイーンは論理的演繹型推理、ブラウン神父は直感的帰納型推理、なんて言われる(この二つの違いについてはAnonymous Bookstoreの市川憂人さんが「推理小説のエッセンス」というコラムの中でとてもわかりやすく説明されている)。

 演繹、帰納という言葉はちょっと耳慣れないから説明しておこう。
 演繹というのは前提があって、そこから結論をだす考え方。よくある例は「人は死ぬ」「ソクラテスは人である」「ゆえにソクラテスは死ぬ」というやつ。これは、前提さえ正しければ結論は必ず正しい。
 帰納は逆で、いくつもの事実から法則を見出そうとすること。「ソクラテスは死んだ」「アリストテレスも死んだ」「ゆえに人は死ぬ」というやつ。こっちは、でてくる結論は必ずしも正しくない。「昨日、僕は生きてた」「今日も僕は生きてる」「ゆえに、明日も僕は生きてるだろう」と思ってたら、明日は車にひかれて死んでるかもしれない。

 ブックガイドなんかを読むと、ブラウン神父シリーズはなんの疑いもなく「本格ミステリの有名な古典」扱いされてることが多い。
 直感的推理のブラウン神父シリーズが本格ミステリとして認められているなら、同じように『容疑者Xの献身』も本格ミステリでいいんじゃないだろうか?

 でまあ、これは悩んでいてもしょうがない、掲示板を通じて二階堂黎人ご本人に直接質問してみた(2005/12/13 07:18)。
 これについて、思いがけないくらい丁寧な回答を頂いた(2005/12/13 15:01)。正確なところは掲示板のほうを参照してほしいけど、要するにブラウン神父シリーズが書かれたのはフェアプレイ精神が確立される前の作品だから、例外的に認めましょうということだった。

 これを聞いて、僕は凄く納得した。実を言うとそれまで、二階堂黎人は自分の好みで勝手な定義をしてるだけと思い込んでた。そうではなく、本格ミステリというジャンルの歴史的経緯を踏まえての定義だったのだ。
 英米黄金時代にエラリー・クイーンらの諸作品を通じて本格ミステリが洗練され様式が確立したと考えるなら、確かに「読者が手がかりと伏線によって論理的に真相へ至れること」が本格ミステリの定義だ、というのは客観的な意見だと思う。だってそれはただの個人の好みではなく、客観的な歴史的事実なんだから。
 客観的な事実を述べているだけの人に「個人の趣味を押し付けるな」とは言えない。もちろん、英米黄金時代になにがあったのか、という経緯を知らない人がそう誤解してしまうのも無理のないことだけど。

ブラウン神父の遺産

 二階堂黎人は悪くない。それを批判する人も悪くない。そこにあるのはただの誤解とすれ違いだと思う。
 ただ、それを踏まえた上で、僕自身は本格ミステリというジャンルについて、ちょっと違う考え方をしてる。ここからの記述は、僕がろくに古典なんて読んでないことを踏まえた上で、疑いながら読んでほしい。

 エラリー・クイーンは論理的演繹型推理をどんどん突き詰めていった。その結果わかったのが、名探偵は必ず真相に到達できるなんて保証がない、ということだった。
 さっき説明したけど、演繹という考え方は正しい前提があって初めて成立する。つまり世間一般的な常識とか、犯人はこういう行動をするものだ、というルールを疑うことなく信じることで成立する。
 ところが、現実の事件はそんなに単純じゃない。犯人は探偵役を意識して偽の手がかりを残すかもしれないし、思いがけない偶然とかアクシデントがあったかもしれない。あらゆる事件を必ず解決できる名探偵推理規則セット、なんてものはない。
 こうして英米黄金時代はやがてハードボイルドとか犯罪小説とかサスペンスとか、現実世界という予想もつかない乱暴な世界を描く方向に移っていく。
 それは日本でも同じで、第二次世界大戦後の諸作品はロジックよりもトリックに、そして松本清張に代表される社会派のようなリアリティの表現に重点がおかれていた。

 ところがここで、都筑道夫が『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社)で「論理のアクロバット」という概念を提唱する(1970年から71年にかけて『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』に連載)。ちょっと引用してみよう。

 [引用者注:横溝正史『獄門島』を例に挙げて]こういう登場人物の(つまりは読者の)錯覚を、作者がたくみに利用して、あとでアッといわせるところを、私は「論理のアクロバット」と呼んでいますが、非論理、超論理の支配する現代では、こうした論理のアクロバットを重視して、必然性第一にプロットを組みあげる以外、本格推理小説の生きのこる道はない、と私は思うのです。

 推理小説の不可能問題も、読者がそれを希望し、作者が可能にしてみせるだけのことには、違いないけれど、そこには登場人物の生活があります。それは、われわれの生活を模したオーディナリ・ライフです。つまり、パズラー・ファンの欲するのは、オーディナリ・ライフに起るエクストロディナリ・ケースと、その解決です。カーのたとえを借用すれば、逆立ちしたまま、人殺しをする話にはどうやったか、というだけではなく、なぜ逆立ちしたか、までが謎なのです。
 逆立ちした理由は、どうでもいい、というのでは、舞台奇術と変りがない、舞台奇術は、いまやナイト・クラブのアトラクションになりさがって、昔日の栄光はありません。けれども、アマチャー奇術には、まだ多くのファンがつどって、研究し、演技するよろこびを味っています。舞台奇術の大道具、大仕掛けのマナリズムにくらべて、アマチャー奇術にはメンタルな要素があり、論理のアクロバットがあるからだ、といったら、こじつけになるでしょうか。

 さあ、なんとなくわかってもらえただろうか。

 エラリー・クイーンは論理的演繹型推理を突き詰めた。
 ↓
 その結果、現実世界の複雑さという問題に直面してしまった。
 ↓
 こうして、その突拍子もない複雑で豊かな現実世界と取り組む作品が増えた。
 ↓
 ところが、今度はそれが行きすぎて、物語世界の必然性が見えない、作者の意図的な思惑が横行する作品ばかりになってしまった。

 そこで都筑道夫が示した答えは、「エラリー・クイーンに帰れ」ではなかった。
 そうではなく、個々の事件に存在する固有の論理、「オーディナリ・ライフに起るエクストロディナリ・ケースと、その解決」を見出そう、ということだった。

 ブラウン神父の直感的帰納型推理は、ただの思い付きで物的証拠も仮説検討もなく、それが真相だなんていう保証はない。
 けれど、エラリー・クイーンの論理的演繹型推理も、けっきょくは現実の複雑性に阻まれて、「あらゆる事件に適用できる普遍的推理規則」なんて幻想だとわかってしまった。
 都筑道夫が見出したのは、その中間だった。直感的帰納型推理も、論理的演繹型推理も真相に到達できない。でも、それは当たり前のことなんだ。ひとつひとつの事件の状況や背後関係から生まれる蓋然性、それを考慮した上で、論理を見出し、真実ではなく「答え」に到達すること。それが大事なんだと気付いた。
 本格ミステリが扱う「論理」は論理学の世界における機械操作的な論理じゃない。社会/文化における環境からくる帰納的事実と演繹的推論を組み合わせた豊かで流動性のある「論理」なんだ。それが都筑道夫の到達した結論だったんじゃないかと思う。

 個人的には、これが「新本格」以降の本格ミステリブームにも影響してると考えている。
 例えば北村薫に代表される「日常の謎」派。何気ない日常生活の中での些細な謎にロジックを見出して解く。これは、論理のアクロバットのひとつのバリエーションだったのではないかと思う。
 そして、理系だの妖怪だの民俗学だのイスラム教だの、なんだのかんだのありとあらゆる「小世界論理」を描いた作品が大量に生まれた。論理のアクロバットというひとつの方法論が、あらゆる学問分野/知識体系に応用された。
 これが本格ミステリブームのひとつの理由だったのではないかと思っている。

 なんだか凄く遠回りしたけど、『容疑者Xの献身』に話を戻そう。
 この作品で探偵役の湯川は、直感的な推理をしてる。ほんの少しの疑問点を解消するために、証拠もなしに大胆すぎる仮説を立てている。なぜ、湯川はそんなことを考えたのだろう。
 それは、石神という人物を湯川がよく知っていたからだ。読者に対し作品中で徹底的に描かれる石神のキャラクタこそが、強力な蓋然性を生み出してる。
 ブラウン神父の遺産、すなわちエラリー・クイーンから都筑道夫へと至る本格ミステリというジャンル観の変遷を考慮したとき、果たして『容疑者Xの献身』は本格ミステリではない、と「客観的に」言い切れるだろうか?

テキストは嘘をつかない

 さて、まだ話は終わらない。二階堂黎人の本格推理小説の定義について、もうひとつ気になることがあった。
 それは、メタレベルで作者から読者に手がかりが与えられる場合はどうだろう、というものだった。

 今年の四月、ミステリ好きの大規模なオフ会MYSCON6に参加したのをきっかけに、僕は「蛍の旋律に我々は如何にして幻惑されたか」という文章を書いた。
 これは麻耶雄嵩『螢』(幻冬舎)を再読して、真相を読者が見抜くことができるか調べてみたという文章で、その結果、ある趣向についてはきちんとそれを見抜く手がかりが書いてあった。しかも、それについて作品内の探偵役はなんにも言及せず、勘のいい読者しか気付かない書き方になっていた。

 本格ミステリ作家、それも、物語内論理の整合性を重視する一部の作家は、こういうことをしてしまうものらしい。例え百人中一人でも、いや一万人に一人でも、論理を隅から隅まで張り巡らさないと気が済まない、そういうものらしい。
 このことに興味のある人は、乾くるみ『塔の断章』(講談社)を読んでみてほしい。それも必ず、自作解説のある文庫のほうを。本格ミステリ作家ってこんなこと考えてる人ばかりだろうかと間違いなく思う。

 さて、作中の探偵役には論理的な推理のための手がかりが与えられていなくても、読者に直接、作者がこっそり手がかりを示していた場合、これは「読者が手がかりと伏線によって論理的に真相へ至れること」という条件を満たしてるだろうか?
 これも先程の質問とあわせて二階堂黎人ご本人に直接質問してみた。こっちも正確なところは掲示板のほうを参照してほしいけど、結論としてはイエス、メタレベルでも手がかりを示してこそ本格推理小説とのことだった(ただ、例に挙げられていたのが作中作のことだったので、僕の書いた「メタレベル」という言葉を誤解されていたかも……)。

 まあ、そうだろうなあ。読者に直接でも、手がかりは手がかりなんだから。
 でも、東野圭吾はあまり論理にうるさい作家じゃない。多分、そんな読者に直接なんて手がかりはないだろう。
 もちろん『どちらかが彼女を殺した』みたいな、探偵役が真相を語ることなく読者に謎解きをたくしてしまうなんて作品も書いてはいるけど、どちらかというともっとエンターテイメント寄りな、読者を楽しませることを第一に考える作家だろうし。この『容疑者Xの献身』なんて正に、恋愛小説として読者を泣かせてやろうという意気込みの見える作品だし。そんな一万人に一人の本格ミステリマニアを喜ばせようなんて思わないだろう。

 とまあ、期待もせず、でもまあ、あらすじ紹介をこの雑文用に書く必要もあるから、適当に流したり飛ばしたりして再読したのだけど……。

 ………………みつけてしまった。

 冒頭、石神は午前七時三十五分にアパートをでる。そして「高校へ行く」(p6)前に靖子のいる弁当屋に寄る。
 その後で、富樫が花岡親娘に殺害され、石神が助けを申し出る。p50で視点は草薙刑事に移り、堤防で死体が見つかったシーンに変わる。死亡推定時刻は三月十日の午後六時以降と明示され(p80)、ここで読者は無意識に冒頭のシーンが三月十日の出来事だったと誤解する。
 ここから大幅にページは飛んで p246、学校へ聞き込みに訪れた草薙刑事は、勤怠表を見ながらこんなことを言う。
「十一日の前日、つまり十日も、先生は午前中の授業をお休みになっている。(以下略)」

 さあ、どうだろう。冒頭のシーンが三月十日だったのなら、石神が高校に行ったことと、勤怠表に書かれている「午前中の授業をお休みになっている」ことが合わない。明らかな矛盾だ。
 石神は勤怠表に嘘を書いたのだろうか? 富樫の殺人を隠すために必要な工作だったのだろうか? いや、冒頭のシーンは殺人が起きる前の時間だったのだから、そこを工作しても意味がない。
 ここから導き出される結論はただひとつ、冒頭のシーンは三月十日ではなかった。従って、富樫が殺されたのは三月十日ではなくなるし、堤防で見つかった死体も富樫ではないとわかる。
 しかも、学校での聞き込みシーンの直後に、湯川が真相に気付くシーンがある(p255-256)。これは、読者が探偵役と同じ段階で真相に到達できるよう、作者が意図的に論理的な手がかりをこの位置に埋め込んだ、と考えるべきだろう。

 東野圭吾は、一万人に一人の読者のことも考えていた。
 『容疑者Xの献身』は、本格ミステリだった。