この雑文は犯人当て小説について考察しているが、実際の作品については触れていない。*1
 本格ミステリに関する文章というよりは、論理学、哲学、情報工学に関する文章となるので注意。

1 はじめに

 以下、犯人当て小説におけるフェアプレイは可能かについて考察する。

 取り急ぎ、犯人当て小説とはステロタイプを想像してもらえればよい。殺人が起こり、犯行現場や関係者に対し探偵役が捜査を行い、おもむろに読者への挑戦が挿入され、複数の容疑者から犯人を指摘する謎解きへと至る小説だ。
 フェアプレイとは、挑戦状までに提示された情報のみで、謎解きを読者が行えることを指す。

2 フェアプレイ可能性はコミュニケーション可能性

 さて、フェアプレイは可能だろうか。まずは日常的な例に置き換えてみよう。

 あなたは朝、家族や職場の同僚に「おはよう」と挨拶されたらどう応えるだろう。
 あるいは、小学生のときにテストで「2+3=?」という問いにどう答えただろう。

 恐らくあなたは「おはよう」と応えただろう。まあ、状況によっては「うわあ、もう朝か、完徹だよ」などと応えたかもしれない。
 テストの解答欄には「5」という数字を書き込んだだろう。まだ足し算の概念を理解しておらず「23」と書いてペケをもらったかもしれないが。

 犯人当て小説と上記の例との類似は直感的にわかると思う。どちらも事前に与えられた情報(挨拶の言葉、テスト問題)に対し、適切な判断を行い、反応を返す行為だ。そして反応には正しいものと間違ったものがある。
 同僚に「おはよう」と言われて「なんじゃい、このスカポラチンキが」と応えたら、とても面倒なことになる。もちろん特殊なシチューエーションでは有り得ないわけではないが。
 家族に「おはよう」と声をかけ「おはようございます、ご主人様」と応えられるのは常軌を逸している。もちろん特殊なシチューエーションでは有り得ないわけではないと信じているが。

 つまるところ、犯人当て小説におけるフェアプレイとは「他人に意志を伝えることは可能か」「人と人とのコミュニケーションは可能か」という、当たり前すぎて意味のなさそうな問いに還元できる。コミュニケーションが不可能だったら、この人間社会が成立しないことなど面白おかしい比喩で読者の興味を惹くまでもないだろう。

 従ってフェアプレイは可能である。以上、終わり。

3 実作品における問題とその検証

 と、いうわけにもいかない。
 古今の名作を挙げるまでもなく、フェアプレイの可否は本格ミステリにとって重大な問題である。少なくともそう信じる作家がいるし、作品内容へ強い影響を与えている。執筆速度にも影響を与えているらしいが定かではない。

 では、まず古今の本格ミステリにおいて、フェアプレイが不可能ではないかと疑いたくなるような問題を具体的に挙げてみよう。そして、それが本当にフェアプレイを阻むことができるか検証してみよう。

 その前に、少し論点を整理する。
 最初に挙げたように、本稿ではフェアプレイは可能かについて考えたい。つまり、探偵役ではなく、読者による謎解きが可能かどうか主題にしたい。
 物語世界にいる探偵役が謎を解くことができるのか、という問題についてはサブ扱いとする。

3.1 どんでん返し

 探偵役が謎解きをした後でみつかった証拠や証言などによって、推理が否定されてしまう問題。*2

 これは、物語世界の探偵役ならば確かに障壁となる。読者には有限のテキストでも、作中人物にとって物語世界は無限だ。そして有限の能力しかない探偵役は常に限定された情報しか得ることができない。従って謎解きの後で追加された情報により推理が覆ることは有り得る。

 しかし犯人当て小説では、推理に必要な情報は読者への挑戦状までに提示されることが約束されるため、この問題は当てはまらない。
 仮に謎解きシーンで新たな情報が追加され推理が覆ったとしても、それは蛇足に過ぎない。フェアプレイ可能性とは無関係な作者の恣意性の問題となる。

3.2 偽の手がかり

 探偵役がみつけた手がかりが、実は誤った推理に導くために犯人(あるいは犯人をかばう者)が仕掛けた偽の手がかりであったら、という問題。

 他の証拠があれば、探偵役は全体の整合性から手がかりが偽物であることを突き止めることができる。
 もし探偵役の能力が充分で、かつ世界が有限だったなら、手がかりが本物かどうか決定できるだろう。しかし探偵役は有限の能力しかなく、物語世界は無限なため、決定できない。

 ひるがえせば、この問題もフェアプレイ可能性の障壁とはならない。手がかりが偽物であることを推理できるような証拠を作者が謎解き前に提示していればよい。

3.3 定義の揺らぎ

 そもそも「犯人」とはなんなのか、という問題。例えば犯罪の計画者と実行者が異なる場合や、実行者は自分の意志でやっているつもりで実は別の人物に巧みに操られていた、という場合。

 実行者が操られていたというなら、その操られていたこと自体を推理できる情報が提示されなければならない。その意味で、これも作者の恣意性の問題である。
 強いて言うと、読者への挑戦状で繊細な表現をすべきだろう。「XXを刺殺した者は誰か」と、「XXの殺害を成功させたのは誰か」とで意味が異なってくる。

3.4 観測者問題

 探偵役の捜査行為そのものが事件に対し不可避な影響を与えてしまう問題。
 例えば探偵と事件の関係者に過去のつながりがあり、当時の出来事が関係者の態度に影響を与える場合や、探偵の素性を犯人が予め知っており、その思考の癖を利用したり、ともに行動しながら巧みに偽の真相に導いていく場合などがある。

 物語世界に存在する探偵役には確かにこの問題が発生する。しかし読者が文章を読む行為は物語に影響を与えない。ハッピーエンドを願いながら読んでいたら、死ぬはずだった主人公が私の本だけ助かった、などということはない。
 確かに、探偵役の行動は事件に影響する。しかしそれは、もしも探偵役がいなかったら事件は解決しなかった、という意味での影響である。犯人当て小説としては、探偵役というものは情報を集め謎を解くための道化師として行動させなければならない。
 観測者問題はそれを裏返しに言っているだけで、物語世界に実在する探偵役としては確かに障壁だが、犯人当て小説としては作者の恣意性の問題でしかない。

4 シンプルなモデルでの検討

 さて、実際の作品に現れる問題について考察を終えた。*3
 その結果、確かに無限の物語世界に存在する有限の能力しかない探偵役にとっては大問題だったが、読者にとってはどれもこれも作者の恣意性の問題でしかなかった。
 よかったよかった。やっぱりフェアプレイは可能だったのだ。では、これでお終い。さようなら。

 そうは豚屋が卸さない。プヒー。

 上記の問題は、確かに「作者の恣意性」や「無限の物語世界と有限な能力の探偵」からくる問題でしかない。こういった問題に対し「そんな難しいこと気にせずに、作者がしっかりすりゃいいことでしょ」といった意見がなされるのも無理はない。

 しかし、ならばその「作者の恣意性」を具体的に防ぐにはどうすればいいのか?
 「気のせい」「考えすぎ」「悩むなよ」という意見に対し、どのように「気にせず」「考えすぎず」「悩まず」にフェアプレイを実現するような明快な手法があるのか?

 この疑問について正確に検討するため、実際のミステリ作品から一歩下がり、簡単なモデルを定義する。そして、そのモデルについてフェアプレイが可能か考察することにしよう。

4.1 館モデル

 一般にイメージされがちな本格ミステリを意識し、仮に「館モデル」とでも名付けることにしよう。いや、別に「嵐の孤島モデル」でも「雪の山荘モデル」でもいいのだが。

 館モデルは有限の世界である。館とその周囲数百メートル程しかない。秘密の地下墓所や鍾乳洞を含むが。
 館には主人とその妻、ときどき長逗留する叔父、遺産を狙っている遠縁の親戚などがいる。屋根裏に隠れ住む車椅子の美少年がいるとしてもよい。主人の客として、弁護士や医者、素性のしれない謎の美女、そしてなによりも執事と複数のメイドがいる。有限の世界としたので、外部から怪しい宗教団体のメンバーや村の外れにすむ頭のおかしい老婆とかは含まないこととする。

 調子に乗って長く書いたが、正直言って登場人物の社会的属性や性格はどうでもよい。会話し、記憶し、判断して、行動すること。そういうことさえできるなら、ロボットでもいい。
 要は限定された空間があり、そこには名前と記憶/観察/判断/行動能力を有する個体が複数いるということだ。

 さて、そこで殺人が起こる。いや、単に個体のひとつが機能を停止しただけだが。

 個体のひとつに「探偵役」という名前の者が一人いる。こいつは登場人物達と会話を交わし、現場を調べ、情報を統合して誰が殺害を行ったか突き止めようとする。
 探偵役は各個体について行動規則をある程度知っており、更に調査の過程を通じて蓄積していく。
 それは例えば「人は朝起きて夜寝る」といった常識的なもの、「犯人は自分の犯行を隠そうとする」といった犯罪に関する人間心理、「執事は就寝前に館の戸締まりを確認している」といった具体的な情報などからなる。

 ただし、これはモデルなので、探偵役に余計な知識は一切ない。館の外部に関する知識はない。あくまで館の内部にある事物や個体に関する規則しか知らない。
 言い方を変えれば、探偵役は「意味」を知らない。単に観察した個体のラベル(「主人の妻」「医者」「血痕」「窓」……)同士にどのような関係があるのか規則を蓄積するだけだ。
 このようにして、記号と、その記号間で成立する規則を蓄積し、探偵役はそれらを論理に従って組み合わせ「犯人はXである」という命題のXに当てはまる記号を探り当てる。

4.2 無矛盾性と完全性

 さて、館モデルにおいて探偵役は「必ず」「正しく」犯人を推理できるだろうか?

 「必ず」とは、探偵役は「犯人はXである」のXに当てはまる記号を必ず推理できなければならないということだ。
 言い換えれば、「犯人は執事である」「犯人は弁護士である」……とXに当てはまる記号を各個体のラベルそれぞれで入れ替えた文章すべてについて真偽を決定できなければならない、ということになる。
 これを「完全性」と呼ぶことにしよう。

 「正しく」とは、探偵役の推理に矛盾があってはならないということだ。
 これを「無矛盾性」と呼ぶことにしよう。

 館モデルにおいて完全性と無矛盾性を成立させることは可能だろうか?
 実は、成立しない。

 こんな問題を考えてみよう。*4
 探偵役がある館を訪れた。そこには執事がいた。執事という者は二種類あることを探偵役は知っている。常に本当のことしか言わない正直者であるか、常に間違ったことしか言わない嘘つきのどちらかだ。
 執事は探偵にこう言った。
「あなたは私が正直者であることを推理できないでしょう」

 この問題が館モデルを満たしていることはわかって頂けると思う。探偵、執事、正直者、嘘つきというラベルといくつかのルールがあるだけだ。
 まあ殺人は起きていないが、執事の証言が嘘なのか本当なのかが犯人を推理する決め手になることは充分に考えられるだろう。

 では、執事の発言「あなたは私が正直者であることを推理できないでしょう」について探偵役が真偽を推理できるか考えてみよう。

 まず「執事は嘘つき」だと仮定する。すると、嘘つきは常に間違ったことしか言わないはずだから「探偵役は執事が正直者であることを推理できない」をひっくり返して、「探偵役は執事が正直者であることを推理できる」となる。
 これは最初に「執事は嘘つき」と仮定したことと矛盾する。従って、執事は嘘つきではない。

 執事は嘘つきではない。なら執事は正直者に違いない。しかし「執事は正直者」と仮定すると、「探偵役は執事が正直者であることを推理できない」という執事の発言は正しいことになる。従って、探偵役は執事が正直者であることを推理できない。

 結論。探偵役は執事の発言が本当か嘘か確定できない。つまり、完全性は成立しない。*5

4.3 館モデルでフェアプレイは可能か

 おや、これでは読者にもフェアプレイは不可能ではないか、と思った方がいるかもしれない。大丈夫、読者には問題ない。
 執事の発言をよく読んでほしい。「探偵役は執事が正直者であることを推理できない」と言っているのであり、「読者は執事が正直者であることを推理できない」と言っているのではない。

 先程「執事は嘘つき」だと仮定すると矛盾が起きるとわかった。ここから、執事は嘘つきではないということがわかった。
 次に「執事は正直者」と仮定すると探偵役は確かに執事の発言通り正直者であることを推理できなくなる。しかし、読者は執事の発言に影響を受けない。「執事は嘘つきではない」ことがわかっているのだから、執事は正直者だと読者は結論できる。

5 より現実に即したモデルでの検討

 さて、館モデルでの考察により、探偵役は必ずしも謎を解けないこと、しかし、それはフェアプレイには影響しないことを記した。

 では、本当に探偵役は謎を解くことができないのか。

 まず、そもそも執事にそんな発言をさせなければよいのでは、と思った方もいると思う。
 その通り。上記の問題は各個体が探偵役の能力について言及したときのみ発生する。完全性は否定されたが、執事のような発言さえなければ問題ない。探偵役が謎を解けない「特殊な場合もある」ということを示したに過ぎない。
 しかし、物語世界の登場人物に過ぎない探偵役に、他の登場人物の発言を強制する能力はない。

 次に、そもそも探偵と執事の問題は、あまりに非日常過ぎるのではという疑問があると思う。なんだって執事はいきなり探偵役を無能扱いし、更に探偵はそれを真に受けてしまうのか。
 言うまでもなく、原因は館モデルが単純すぎることにある。
 現実世界では、個人が一貫して正直であり続けたり嘘をつき続けたりはしない。勘違いや間違いだってある。「私は嘘つきです」という矛盾した文章さえ発言できる(嘘つきが「私は嘘つき」などと言うはずがない)。
 人間は言葉について単に真偽を判定するのではなく、それをもっと多様な見方、文化的、社会的文脈で解釈している。

 それでは、館モデルをもう少し現実的なものに改良し、その上で再度検討してみよう。

5.1 館モデル改

 さて、館モデルをもう少し現実的にするわけだから、名称は「湯煙温泉宿モデル」とか「大学サークル夏期合宿山荘モデル」とか「大地震で脱出不可能になった雑居ビルモデル」とか……館モデル改でいいか。

 前回と同じく、館モデル改は有限の世界である。限定された空間があり、そこに名前と記憶/観察/判断/行動能力を有する個体がいる。

 さて、探偵役は二種類の規則を初めから持っている。
 まずは論理。「AならばB、BならばCが成立するとき、AならばC」のように、普遍的に成り立つ当たり前な規則だ。
 次に知識。「犬はワンと吠え、猫はニャーと鳴く」といった一般常識だ。こちらは必ずしも正しいわけではない。

 館を訪れた探偵役は情報を収集し、新たな規則を増やしていく。
 例えば「貴族なんてのは昼まで寝てるもんだ」という常識(?)を探偵役は最初のうち信じているかもしれない。しかし、朝食の席で一緒になったり、執事が「ご主人様は早朝の狩りにでかけられるのを楽しみにされていて」などと発言するのを聞いたりすることで、「ここの主人は貴族だが朝は早いらしいな」と修正を加えることになる。
 このようにして探偵役は知識を少しずつ修正しながら各個体の行動規則を調べていく。

 言い方を変えれば、探偵役は「小世界」を心の中に持っている。それを、館で得た情報に合わせて「小世界」を(物語内)現実世界に近づくよう適宜修正していくわけだ。
 殺人が起こると、探偵役は更に情報を収集し、小世界を現実世界により近付ける。各個体の行動規則から、探偵役が直接的には観察することのできなかったこと、すなわち犯人は誰かについて推理するわけだ。

5.2 規則を知ることは可能か

 さて、館モデル改で探偵役が犯人を突き止めるには、なにが必要だろうか。それは当然、各個体の行動規則を正しく知ることだろう。

 先程の執事の発言のように、個体Aが個体Bについて「個体Bはこんな行動規則を持っています」という発言した場合、そもそも個体Aが探偵役に正しいことを言うのかどうか、個体Aの行動規則のほうが問題になってしまう。
 他の個体からの情報収集以外から、個体の行動規則を知るにはどうすればいいか。言うまでもなく、それは探偵役自身が目的の個体の振る舞いを観察し、行動規則を求めることだろう。

 では、ある個体の振る舞いを直接観察し、そこからその個体の行動規則を求められるだろうか?

 こんな問題を考えてみよう。
 探偵役がある館を訪れた。そこにはメイドがいて「S・M・T・W・T」と探偵役に耳打ちした。
「次に来るアルファベットはなあに?」

 探偵役は知識として英語を知っていた。Sunday, Monday, Tuesday... ハハア、次は金曜日だな。
 ということで探偵役は「F」と答える。
「当たり!」メイドは微笑んだ。
「じゃあ、その次は?」
「Sですね」土曜日(Saturday)を思い浮かべて即答する。
「残念でした」笑い転げながるメイド。
「Somebody meets the world takes farewall of somebody (世界に立ち向かう者は誰かに別れを告げる)の略だから、答えはO」

 アホか、と思うだろう。しかし、これは根本的な問題だ。
 可愛いからメイドは許すことにして、上の例は重大な事実を示している。ある個体の有限な振る舞いから、それがどんな規則に従っているか、必ずしも推察することはできないということだ。
 もしかすると(上の例で探偵役がFは当てられたように)途中までは偶然合うかもしれない。しかし、最終的に規則がどんなものなのかは観察対象の個体だけが知っている。ある時点で個体の行動規則を知ることができたと思っても、次の振る舞いで裏切られるかもしれない。

 結論。探偵役は各個体について行動規則を確証することができない。従って謎を解くことができない。*6

5.3 館モデル改でフェアプレイは可能か

 さて、もう気付かれている方もいると思う。
 「規則を確証することができない」という問題は、読者のフェアプレイをも不可能にする。

 最初の館モデルでは規則の伝達を自明なこととした。結果、そのような規則が影響する探偵役については謎を解くことができなくなる場合があることがわかったが、物語世界の規則からは独立した存在である読者には影響しなかった。
 しかし館モデル改では、読者は探偵役と同じ条件に立たされる。読者もまた、論理と知識をもとに、有限の文章を読み、規則を推察し、犯人を推理する。規則の伝達が可能ではないなら、フェアプレイは可能ではない。

 ここにいたって遂に、フェアプレイ可能性に強力な障壁が現れた。

6 コミュニケーションはいかに可能か

 ここで話は最初に戻る。
 そもそも、いちばん最初に「フェアプレイ可能性はコミュニケーション可能性」であると述べた。そう、現実の世界では規則の伝達がいくらでも成功している。家庭で、学校で、職場で、社会全体で、会話や教育や仕事で規則の伝達は行われコミュニケーションがされている。

 そうなのだ。けっきょくフェアプレイ可能性を証明するには、いちばん最初に当たり前のこととして省略したコミュニケーション可能性について、それがどうして成り立つのかを明らかにしなければならないのだ。

 では、具体例としてこんな問題を考えてみよう。
 テーブルの上にリンゴがひとつあります。そこにもうひとつリンゴを置きました。テーブルの上にはリンゴがいくつあるでしょう。

 解答は「二個」になる。この問題の背景には「1+1=2」という規則がある。数式がでてくると嫌がる読者がいるので本当は使用したくなかったのだが、他にいい例も思い浮かばないのでやむを得ない。
 さて、ではなぜ「1+1=2」という規則が成り立つのか? そしてこの問題はどうしてこの規則を読者に伝達できたのか?

6.1 意味を理解するということ

 「1+1=2」で使用されているアラビア数字や演算記号がどのように発明され普及されるようになったか調べてもしかたがない。そんなこと知らなくても成り立ってるもんね。
 例えば手書きにしたり異なるフォントを使ったり、「一足す一は二」と表現を変えても、それらが同じことを指していることはわかる。「1+1=」という記号を単なる記号として捉えず、ちゃんと意味を把握して「2」という解答を計算できるのだから、記号の由来を調べても意味がない。

 では、なぜ「1+1=2」なのだろうか。もしくは、人はなぜ、どのように「1+1=2」を理解しているのだろうか。
 すぐに思い浮かぶのが「そりゃ、学校で習ったからでしょ」というものだ。学校でなくてもいいが、とにかく誰かに「一足す一は二、そういうものなの!」と教え込まれた。だから「1+1=2」なのだ。
 しかしこれはすぐに違うとわかる。足し算を学び、ちゃんと理解すれば、一度も見たことがない他の計算も答えがだせるようになる。「3824+4296=?」という数式を一度も解いたことがなくても、足し算のルールを知っていれば「8120」と答えがだせる。

 「1+1=2」を、単なる記号として丸暗記ではなく、意味として理解しているとはどういうことだろう。

6.2 論理的に正しい?

 知っている人はここでラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』を思い出すかもしれない。これは数学を論理学から基礎付けようと試みた本で、「1+1=2」が証明されるまでに数千ページが費やされているという。それを聞いた時点で私は一生読まねえなと思った。
 要するに「AならばBかつAが成り立つならば、Bが成り立つ」「Aは真であるか偽であるかどっちかである」みたいな、アホか当たり前やんという論理を積み重ねて「1+1=2」を証明した本なのだそうだ。ヘー。

 なるほど、それなら「1+1=2」は正しいに違いない、と思いたくなる。
 しかし、なぜ『プリンキピア・マテマティカ』を読んでいない人でも「1+1=2」を「正しい」と理解できるのか。

 論理というものについて、もう少し深く考えてみよう。
 当たり前な論理のひとつとして「AならばA」というものがある。もう、そのまますぎて怒る気力も湧かないような論理である。
 さて、例えば「黒後家蜘蛛の会」という集まりがあったとする。複数の人間からなるグループだ。ある日、この会に新規メンバーの加入があった。メンバー加入の前と後で「黒後家蜘蛛の会」は同じだろうか? 「AならばA」は成り立つだろうか?
 先程「Aは真であるか偽であるかどっちかである」と述べた。では「ベトラゴンには牙がある」は真だろうか、偽だろうか。ちなみに、ベトラゴンというのは私がいま適当に作った言葉だ。

 上記の例でなんとなくわかってもらえると思うが、論理は、現実世界に必ずしもそのまま適用できない。論理として正しいから、というだけで現実世界へ気楽に勝手に適当に応用できるわけではないのだ。集合を扱う場合は「AならばA」が成立しないときもある。想像の出来事を扱う場合は「Aは真であるか偽であるかどっちかである」は必ずしも成立しないのだ。

 例えば、上の問題がリンゴではなく粘土の塊だったらどうだろう。テーブルの上にリンゴをもう一個置いた瞬間、二つはくっついて一つになってしまったら。あらゆるものがペトペトくっついてしまう粘土のようなものでできた星からやってきた宇宙人、名付けてザ・粘土星人なら「一個」と答えるだろう。
 つまり粘土の個数に関する操作については「1+1=2」は成り立たない。リンゴの個数だからこそ「1+1=2」という論理が成り立つ。

 リンゴの問題を読んだ瞬間、人はそれが粘土ルールではなくリンゴルールであることをすぐに気付き、結果として「二個」と解答する。
 「1+1=2」は論理学から導き出せるかもしれない。しかし、そもそも人は「適切な」論理をどのようにして選択しているのか。

6.3 リンゴとはなに?

 リンゴの問題について、もう少し具体的に考えてみよう。
 現実に、テーブルを用意して欲しい。思い浮かべるだけでは駄目だ。本当に用意しなさい。それからリンゴを一個置きなさい。なに、ない? じゃあスーパーに行って買ってきなさい。今すぐに!
 買ってきた? じゃあテーブルに置いて。え? ちゃぶ台でもいいか? ダメだって、テーブルといったらテーブルじゃなきゃダメ! なけりゃ買ってきなさい!
 用意できた? じゃあリンゴを一個置いて。はい、もう一個リンゴを置く。リンゴはいくつになった?

 リンゴは二個になったことだろう。しかし、本当に?
 二つのリンゴはまったく同じ色だろうか。どちらか一方のほうは楕円形に近く、もう一方は歪んでいたりしないだろうか。一方が「紅玉」で、もう一方が「ジョナゴールド」の場合も「リンゴが二個」でいいのか? そもそも、二つのリンゴは異なる原子、分子、素粒子からできているはずだ。どうしてそれが「同じリンゴ」なのか?

 そう、現実世界に普通名詞そのままの「リンゴ」はない。具体的な個々の「リンゴ」があるだけだ。
 人は丸くて赤くて甘い香りがする、ある特定の物体を「リンゴ」と呼び、そこで認識を停止している。例えば画家や研究者ならリンゴを「ただのリンゴ」以上の視点でみつめることだろう。しかし、そういった条件がなければ「リンゴ」はリンゴ以上でも以下でもない。

6.4 本当に二個になるの?

 あるいはこんなことも考えられる。リンゴを置こうとしたところで、テーブルの脚が突然折れたりしないだろうか? 窓から風が吹き込んで膨らんだカーテンになぎ払われたりしないだろうか? お母さんに突然「ちょっと買い物に行ってきて」なんて言われないだろうか?
 そう、答えは必ずしも二個にはならない。突然のアクシデントによって妨害されるからだ。

 なぜ二個になると考えてしまうのだろう。それは、いきなりテーブルの脚が折れたり窓から風が吹き込むことは滅多にない、と知っているからだ。テーブルの上にリンゴがあり、もう一個リンゴを置くのはたやすいことだと思う。もし一度アクシデントで妨害されても、別の機会にやり直せばうまくいくと知っている。千回やれば、一度や二度はそういうアクシデントがあるかもしれないが、残りはすべてうまくいくと思っている。

 問題の文章には、テーブルの脚が折れそうだとか、すぐ傍に窓があるなんて記述もない。こうして人はテーブルの上にリンゴが二個ある様子を簡単に思い浮かべる。
 例えば、いつも脚が折れそうなテーブルばかり使っていて、強い風が年中びゅうびゅう吹いていてテーブルはカーテンのある窓の傍に置くことにしている星からやってきたザ・ビクビク星人なら、二個になるとは答えなかったはずだ。

6.5 認識/存在/論理

 このようにして考えてみると、リンゴの問題から解答に至るときには、以下のようなことが相互作用しているとわかる。

 リンゴの問題の文章を読み直してみよう。ここでは、リンゴは単に「リンゴ」と書かれている。「テーブルの上に赤いリンゴがあります。そこにちょっと緑色っぽいリンゴを置きました」なんて余分なことは書かれていない。
 テーブルについても同様だ。「そこにもうひとつリンゴを置きました。グラッと揺れましたが気にしない、気にしない」なんて書かれてはいない。
 人はここから「ハハア、これは1+1=2というルールの適用だけでいいんだな」と気付く。問題文に「リンゴを置くときグチョッという手応えがありました」なんて記述はないことから粘土ルールを適用する必要はないとわかる。

 しかし、なぜこんなことが可能なのか。「テーブルの上に丸くて赤いリンゴがあります。そこに同じように丸くて赤くて同じ品種でとにかく見た目に差がない同じリンゴを置きました。グラッともグチョッともしないぞ。窓からテーブルはちゃんと離したんだ。よけいなこと考えんじゃねえ」という問題文ではないのに、なぜ安心して「二個」と答えてしまうのか。

6.6 出題者の視点

 そう、現実世界だったら、対象となる存在(リンゴやテーブル)と、それに対する認識から、適切な論理が選択され、解答に至る。
 しかし文章による問題として提示された場合にはもうひとつの要素が必要になる。

 それは、問題出題者の「視点」だ。
 例えば問題出題者が上記のザ・粘土星人やザ・ビクビク星人だったらどうだろう?

 粘土星人は(あえてグチョッを書かなくても)一個が答えだと考えるだろう。ビクビク星人ならゼロ個だろうか。
 逆に言うと、出題者の視点について特別な注記がない限り、人はそれを「自分と同じような視点」と判断する。結果「リンゴ」と書かれていればそれ以上の具体的な詮索はしなくなる。リンゴはただのリンゴであり、色や形、品種の違いを意識する必要はない。粘土星人だのビクビク星人だのアホらしいことを考える必要はない。

6.7 けっきょく、フェアプレイは可能なのか?

 フェアプレイ可能性とはコミュニケーション可能性であり、そして実際の社会でコミュニケーション可能性が成立していることから、フェアプレイは可能なはずだと考えた。

 そしてひとつの具体例としてリンゴの問題を検討した。結果わかったことは、こんな小学生向けの簡単な問題でも、その背景には膨大な「前提」(視点、存在、認識、論理)が必要になるということだった。

 既に気付いている方もいると思うが、ここからフェアプレイ可能性は数学や論理学といった範疇だけでは白黒を決定できないことがわかると思う。個々の問題について文化的/社会的文脈まで踏み込んで考えなればフェアプレイ成立に必要な前提がなんなのか洗い出すことはできない。
 例えるなら二足歩行ロボットのようなものだ。人間なら誰だって二足歩行が可能なことを知っている。しかし、それをロボットで実現するには膨大な研究と時間が必要だった。

 視点、存在、認識、論理。どれかひとつでも問題出題者を疑えば解答は成り立たない。言い換えれば、フェアプレイ可能性は、まずフェアプレイが可能なことを信じることから成立する。
 フェアプレイに対する態度そのものがフェアプレイ成立に関わってくる。問題文を読み、問題出題者と同じ視点、存在、認識、論理を読みとることで、初めて出題者の意図する解答へ到達することが可能になる。
 なんだか詭弁臭いが、これが事実なんだからしかたがない。

 実は、これが犯人当て小説におけるフェアプレイ可能性を考える上でネックになる。
 あえてコミュニケーション可能性の話のときは略したのだが、現実の世界では「意志を伝える」ことを優先する。前提をできるだけ簡単にすることは可能なのだ。

 しかし犯人当て小説では「当てられるようにしよう。でも、できれば当てられたくない!」と作者は考える。結果として、前提のハードルをどんどん高くする。
 結果として、そのような前提を満たす読者の幅が狭くなり、フェアプレイが成立しているかどうかの検証も困難になる。

 フェアプレイは可能である。
 しかし、すべての犯人当て小説について、フェアであるか否かを判定するための単純で明確な手法は存在しない。
 これが本稿の結論である。

7 補足

 上記の考察を踏まえて、もう少しフェアプレイとその周辺について考えてみよう。

7.1 ロジックはレトリック?

 本稿は、もともと推理小説作家の西澤保彦が、本格ミステリの論理って詭弁だよねレトリックだよねという話を二年前くらいに日記に書いて、ミステリ系サイトで話題になったことに端を発している(西澤保彦の日記ページは閉鎖しちゃったのでリンクできないけど)。
 そこから「フーン、どうだろ、フェアプレイって可能なのかね」とちまちま考えてきた結果がこの文章だ。

 私個人としては、確かにロジックはレトリックの部分もあると思う。レトリックとしての面白さを本格ミステリで突き詰めることはよいと思う。
 ただ、フェアプレイを全面否定するのは反対だ。確かにフェアプレイ可能性は微妙な問題なのだが、その微妙なところこそが本格ミステリを面白くしたと思うからだ。

 といって、フェアプレイこそが本格ミステリの面白さの中心と考えるのも頷けない。クリスティの読者をミスリードする手際や、ブラウン神父シリーズの直感的な推理の面白さなど、フェアプレイ以外にも本格ミステリの面白さはたくさんある。
 カトリックとプロテスタントのどちらが正統なキリスト教なのか考えてもしかたない。歴史学者からすれば、アマゾンの奥地で信仰される泥まみれの石ころだって神は神だ。

7.2 どうすればフェアプレイは可能か

 なんだか長い文章になったわりに、けっきょくフェアプレイがどうすれば可能なのか全然書いてないので、少しはそのことも考察しよう。

 まず思い浮かぶのは、フェアプレイを成立させるための前提をきちんと明らかにすることだろう。
 犯人当て小説には、地の文で嘘をついてはいけないとか、犯行は単独でされたとする、といったお約束がある。

 ただ、上記の通り、けっきょくフェアプレイ可能性には文化/社会的な要因が絡んでくる。犯人当て小説のお約束も、けっきょくは文化/社会的な対策だ。*7
 実際、西尾維新『きみとぼくの壊れた世界』ではそういう文化/社会的な対策が断絶してしまった。*8

 逆に考えると、フェアプレイを可能にするには、そのような文化/社会的な工夫と努力をすればいいわけだ。そう開き直れば、フェアプレイを可能にする方法はたくさんみつかる。
 例えば作者がフェアプレイをきちんと意識し、誠実な作品をたくさん書くこと。読者への挑戦を明言すること。出版社や編集者も協力し、そういった作品の後押しをすること。なにより読者がフェアプレイを意識した作品を楽しむこと。

 そして、なにより大事なのは、そういう工夫と努力を継続し、フェアプレイとはなんなのかという問いに絶えず緊張感を持つことだろう。
 フェアプレイを実現するための新しい工夫、新しい技巧。逆に、読者の推理を裏切るための新しい工夫、新しい技巧。それらが相乗効果を発揮して、本格ミステリが進化する。

 なんてことは私が言うまでもないわなあ。

7.3 叙述トリック

 恐らく本稿を読んでいるような人なら「叙述トリック」という言葉を知っていると思うが、一応説明しておく。これは直接的な嘘はつかないが、あえてそれらしい表現を積み重ねることで、読者を誤った認識に導く方法だ。「手首のブレスレットをなでながら、カオルは溜め息をついた」などと書いておきながら、実はカオルは男性だった、といった技巧を指す。

 本格ミステリでは、被害者が殺害されるシーンを直接描いたりはしない。犯人が直接的にはわからないよう、情報の操作が行われる。その意味において、どんな本格ミステリも絶対公正無私な神の視点ではなく、意図的に歪曲された「誰かの視点」だ。その意味においては、本格ミステリ作品はすべて広義の叙述トリックといえる。
 ただ従来のミステリではその視点は基本的に読者と同じ視点とされてきた。これが叙述トリックでは異なる視点となる。

 リンゴの問題に例えると、問題出題者がザ・粘土星人やザ・ビクビク星人である可能性も考えなければならないということだ。
 もちろん、問題出題者の視点がザ・粘土星人やザ・ビクビク星人であることを示す情報を入れれば、フェアプレイは成立する。といっても、直接的にそれを書くわけにもいかないので、誤った認識のままでは矛盾が生じるといった手がかりにするわけだが。いずれにせよ、叙述トリックの使用はフェアプレイ可能性の障壁とはならない。*9

7.4 小説は、面白ければいいのか

 「フェアプレイなんて小難しいことどうでもいいやん。小説なんて面白ければいいんよ」という意見もあると思う。
 では問おう。そんなあなたにとって「小説の面白さ」とはなにか?

 短歌は五七五七七の定型が定められた詩だ。俳句となると、もっと短く五七五の上に、季語を入れろなんて決まりまである。
 さて、短歌も俳句も詩のひとつだ。だから、自由詩と同じものと考えればいいだろうか。
 いくらなんでもそれは違うだろう。短歌や俳句は自由詩より制限されている。しかし、その制限こそが自由詩にはない独特の余韻を生みだしている。

 本格ミステリも同じだ。謎を提示し、解くこと。論理的であろうとすること。本格ミステリは一般的な小説よりも縛りがある。
 しかし、それこそが他の「自由な」小説にはない独自の面白さを生んできた。*10

 私はフェアプレイにこだわった小説を面白いと思う。上記の通り、フェアプレイを巡る問題は決して静的な、古びていく固定的なものではない。フェアプレイの問題を巡る緊張感は新しい可能性につながっている。

 そう、小説は面白ければいい。
 私にとってフェアプレイこそ小説の面白さの一つだ。
 だから、フェアプレイについて考えたい。

 あなたも、あなたにとって小説の面白さがなんなのか考えてほしい。
 それをとことん突き詰めてほしい。
 あなたにとって読書が新しい可能性を探るなにかであってほしい。

 もちろん、本当にそうするかどうかはあなたの勝手だけどね。うっふっふ。