以下はネット上での各種テキスト(日記、雑文、etc)やMYSCON4での雑談をベースに杉本が妄想を膨らませたしょーもない話です。素晴らしい着想は他の(滅・こぉるさんとか嵐山薫さんとかshakaさんとか市川憂人さんとか蔓葉さんとか)ミステリ強者のお話に端を発しており、杉本はテキトーに話をシェイクしてるだけですってオイなんか逃げ腰だな、コラ > 自分
かつて、砂漠に一つの王国があった。法律学者が支配するその王国は、古くからあるいくつもの不可思議な掟に民達の日常生活までもが制限を受けていた。不満を漏らしながらも民達は毎日頭を悩ませつつ、なんとかその法に従って暮らしていた。
王国の周囲ではいくつもの国が生まれ、領土を拡張し、繁栄を謳歌したが、例外なくやがては衰退を迎え砂に埋もれていった。しかし法律学者が掟の遵守を続けたその王国だけは残り続けた。やがてその王国との物資の交換や政治的交渉は廃れ、その経度も緯度もわからなくなった。しかし、ときおり蜃気楼にその王国で暮らす民達の奇妙な日常が映し出されるのだという。
その王国の名前を、本格ミステリという。
ジャ、ジャ~ン! ドンドンバリバリ、ドンバラリ!
さあ、この文章ではあの永遠にして禁断のテーマ「本格ミステリの定義」についてひとくさりぶちあげさせていただきますぜ、旦那!
ダ――ッ! 逃げないでくださいなましお客様!
ええ、ええ、そうですとも、そんなヨーデルの不完全性定理がどーのこーのシュレーディンガー踊りがなんのかんの皇妃女王問題が菅野よう子、そんな小難しい話はいっさいありやしませんぜ。あっしとお嬢さんとでほら、小指げんまんだ。破ったら針千本で五重塔を造りませう。
話が進まんので、いいかげん口調を戻そう。
えっとまあ、ホントに本格ミステリ定義論をやるつもりではないです。そうではなくて定義論論というかランランというかホアンホアンというか、つまりは「本格ミステリとはなにか?」という問いに対する姿勢が昔と比べてどーも変わってきた、新しい流れが生じてきたように思ったのでちょっくら文章にまとめておくか、とまあそういう雑文です。基本的に以下全部フィーリングで進みますので悪しからず。
おかしい。なんで前フリだけでこんなに長いんだ?
まあ、ともかく話を始めよう。
杉本が大学のワークステーションで初めてネットサーフィンを始めた九十年代後半、その頃ふ~らふ~ら全国の個人サイトをROM(Read Only Member:読むだけで書き込まない人)していると、私的なミステリ作品ベストや「新本格」に対する私的定義、掲示板での「私は本格とはこういうものだと考えています」的な話題がときおり散見された。
ウーム、最近は「新本格」という言葉も鳴りを潜めてきた趣があるから簡単に説明しましょう。簡単に言うと「1987年に講談社ノベルスから出版された綾辻行人『十角館の殺人』を嚆矢とする本格推理小説作品の出版ブーム」ということになる。もう少し付け加えると(暴走開始)以下の特徴を有している。
- 古典作品世界の復興
- 犯人対探偵から作者対読者へ
- 謎の提示―解体プロットの汎用化
1.は館とか密室とか名探偵とかを思い浮かべてもらえばよかろう。社会派ユーモア旅情サスペンス湯煙り時刻表どーのこーのの隆盛で、英米黄金時代の本格推理小説が時代遅れで古臭いとみなされた時代があった(らしい)のだ。んで、そーゆー舞台装置を物置から引っ張り出してもっかい使いましょーというのが1.である。
2.は叙述トリックとか読者への挑戦状とかを思い浮かべて欲しい。頭の中に築いてきた物語世界が登場人物の一言で覆されるカタルシス体験は、予め強く読者を作者が意識してなければ有り得ない。
3.は日常の謎派がこれにあたる。謎の提示―解体という基本的なプロットさえ踏まえていれば、別に殺人じゃなくてもいいじゃんという発見である。ある意味、1.の反対だ。1.は使い古された舞台装置や衣装をもう一度というやり方だが、3.は日常という新しい舞台と衣装を取り入れたのだ。
もちろんこの三つの傾向が「新本格」になってからいきなり登場したわけではない。例えば叙述トリック。語り手が重要な情報をわざと読者に隠すという手法を叙述トリックに含めるなら、エドガー・アラン・ポーの作品にだって叙述トリックはあるし、鮎川哲也の初期の犯人当て小説には、新本格作品にまったくひけをとらない叙述トリックが使われている。
で、この新本格がなにをもたらしたかとゆーと、読者が増えたんだね。
1.は根っからの本格推理小説ファンを呼び戻した。2.は今までにまったくない感覚の読書体験を味わえるとゆーことで新規ファンを呼び寄せた。更に3.が文学的味わいや人間心理の表現を可能にしたのでそーゆー小説が好きな人も呼び寄せた。
となると、1.の読者と2.や3.の読者はちょっと本格に対する態度が違ってくる。「フェアプレイじゃなきゃ本格じゃないもん」「いやー、あの騙される爽快感を味わえないと本格じゃないよな」「メル様に登場頂ければそれで結構でございます」てな具合に。
だからこそ九十年代後半には「新本格」の定義論争があった。極端にいってしまえば、上記三つの傾向から作品の幅が広がり、いろんな読者のニーズに応えられるようになったことから不可避的に生じる価値観の分裂だ。
ただ、このころはまだマシだったのだ。せいぜいこの頃はぶっちゃけ「ロジック(論理性やフェアプレイ)」「マジック(読者に対する騙し)」「ガジェット(名探偵などのキャラクターや舞台装置)」のどれに魅力を感じるのかという程度の分裂であり、まだ誰もが本格ミステリの全体像をなんとなくつかんでいられたのだ。ちょうど村の古老が「むかし、本格ミステリという王国があってのう……」と伝説を語るようなもので、それぞれの古老の話の内容に多少の差異はあってもまだそれを聞いた村人達は「本格ミステリってこんな感じだな」というイメージをわかちあえていた。
んで京極、森、清涼院などとゆー時代を迎えると、また傾向が変わってくるんですな、これが。
まず1.古典作品世界の復興は一定の読者を獲得し続けているので一定の作者が生まれ続けている。
ところが2.はちょっと廃れた観がなくもない。まあ厳密に作品数が減っているか数えてるわけじゃないからわかんないけど、なんか安定して変化がない感じがする。例えば我孫子武丸『殺戮に至る病』と殊能将之『ハサミ男』を比較してみよう。『ハサミ男』の叙述トリックは超基本的で、テクニックとしては『殺戮に至る病』が明らかに上なんだけど出版された順番は『ハサミ男』のほうがずっと後なのだ。また森博嗣作品ではロジック興味とマジック興味が平行している作品が多い。いわば新本格時代に研究されたテクニックがソフィスケートされ初心者にも優しい形で提供されるようになったのだ。いや、もちろん技術的研究を続けてる作家がまったくいなくなったわけでもないけど。
そして大躍進を遂げたのが3.だろう。新本格時代は謎の提示―解体プロットに「日常」を当てはめたわけだけど、別にこれ、やろうと思えばなんでもあてはまるのだ。
こうして理系だの妖怪だの民俗学だの哲学だのイスラムだの昆虫だのSFだの、雨後のタケノコのよーにあれも本格これも本格うちも本格あっちも本格アスキーは半角と、本格ミステリ百花繚乱状態になった。
で、こうなってくるとどーにもこーにも「本格ミステリ」とゆー言葉をうまく一言では表現することができなくなってきたのであります。例えばたそがれSpringPointの滅・こぉるさんは2002年3月26日に「本格」とは何かでこう書いています。
とまあ、それこそ哲学者のように「本格ミステリとはこーゆージャンルである!」と大統一理論を模索する人々が現れては消え消えては現れしながら遂には本格ミステリ定義論はタブーとして公共の場での討論を法的に禁止されたのであります(嘘)。そしていつしか「本格ミステリ? ああ、あれはただの伝説さ、みんな勝手に自分が好きな小説を『これは本格!』と言い張ってるだけだよ」とゆー感じになってきたのであります。哲学者よ、さらば。
……あのね、初っぱなから書いてるけど、これはものすごっく大まかアバウト適当な流れですからね。しかも禄に本なんぞ読んでない杉本一視点からの「ま、こんな感じじゃない?」とゆー意見ですからね。信用しちゃダメよ。
さて、こうして本格ミステリとゆう言葉は、ほとんど観念的イメージになってきました。
例えると「仏様」と「神様」の違いみたいなもんです。仏様とゆーと仏教の神様です。でも神様となるとあらゆる宗教の崇め奉る存在を指しますし、大津波に襲われて「神様、助けて!」と叫ぶときのあんま宗教とは結びつかない根元的イメージも指しますし、言葉としてなんかうまく説明できないけどなんとなくわかってる観念的イメージなわけです。
本格ミステリとゆー言葉も「仏様」から「神様」にランクアップしたといえます。一昔前なら「探偵がでてきてトリックとか見抜いて論理的な推理で犯人をみつける小難しい話」とゆう説明で十分だったのですが、今は例えば誰か読書仲間が「面白い本格ミステリみつけたよ!」と語りかけてきて「エ、ほんと?」と嬉しくなったとしても内心「ウーン、それ私の趣味に合うのかしら?」と思春期の乙女心はそよ風のように揺れ動くのです。たくさんの人が知っているけど誰もが全体像を把握できないので具体的イメージを共有できない言葉であり、観念として強力だけどほとんど無意味に近い言葉なのです。
こーなってくるともう、本格ミステリ定義論は不毛と言われても仕方ありません。別に定義なんてどーでもいい、面白ければいいやんということになります。
ただまあ、ジャンルってそもそも「私はこうゆう傾向の話が好きです」という読者がいて、それで作家や出版社が「じゃあその傾向の作品には同じ名前をつければいいじゃん」とゆーアイデアのもとにつけたのがジャンル名なわけです。つまりジャンルってそもそも面白い本を探すための「目印」なわけで、となると「面白ければジャンル定義なんてどうでもいい」という意見は本末転倒なわけですね。
やっぱある程度「本格ミステリ」というラベルに対して「ウム、多分こういう感じの内容なのであろう」とゆう期待感を裏切らないようにしないと、ラベルとして意味がなくなっちゃうわけです。とゆーか現在まさにそうなってるわけですが。で、そうなってくると当然「そんな使えないラベルはいらねーよ」とゆー話になる恐れがあります。
さて、以上を踏まえて(やっと本題に入れる……)。こういった「本格ミステリとはなにか?」という問いに対する傾向について、どーも去年辺りから新しい流れが生じてきたように思うのです。
杉本が初めてその兆候に気付いたのは嵐山薫さんの嵐の館に2002年4月13日から4月26日にわたって断続的に発表された『私的「本格」論』です。嵐山さんは「謎」「伏線」「ロジック」「トリック」「プロット」「道具立て」といったキーワードを次々にあげ、それらについて解説した上で以下のようにまとめました。
最初、杉本はこれを読んだとき「おや、これは今までの定義論となんとなく違うぞ」という印象を受けました。ただその違いがなんなのか、そのときはうまく言い表すことができませんでした。
で、ふっと思い出したのがMYSCON3でForever Young!のshakaさんが語った「ミステリのエッセンス」です。
とまあ、こんな感じ。更にMYSCON4では初心者企画 『ミステリの輪を広げよう』でもミステリのエッセンスを語ろう大作戦が展開されたようです(杉本はこの企画に参加しなかったので、どんな話題になったのかは不明)。
以上を踏まえて、MYSCON4に参加した杉本は苦行の末(完徹)夜明け頃悟りを開いたのであります。
「これってカルチュラル・スタディーズじゃん!」
……エー、白状すると杉本はカルチュラル・スタディーズの正確な定義を知りません。かつて学問対象となっていなかったサブ・カルチャーを通じて人種問題とかの分析を行ってる学問とゆー印象です。
大事なことは、哲学とか理論物理学みたいにきれいなロジックを求めるのではなく、カルチュラル・スタディーズでは個々の事象を集積し、解析し、そして論理を見いだすという手順を踏んでいることです(踏んでると思うんだけどね、ホントはよく知らん)。
さて、ここで嵐山さんとshakaさんの定義論ちゅうか「本格ミステリってなんやねんとゆー疑問に対する態度」の特徴を以下にまとめてみましょう。
- トップダウンではなくボトムアップ
- 厳密な定義ではなく要素の抽出
- 多様な価値観の肯定
本格ミステリという言葉をスマートに一文に表そうと四苦八苦するのではなく、個々の作品や各人の読書体験から本格ミステリとはなにかという答えを積み上げていこうという姿勢が1.です。
で、1.を踏まえてそこから本格ミステリにとって(必然じゃないけど、重要な)要素を抽出してく作業が2.です。
そして3.です。強引に意見の一致を得ようとするのではなく、個々人が本格ミステリの魅力を自分なりに抽出し、それを互いに理解しようとする態度。これは上に引用したshakaさんの「おそらくこの話のテーブルについていた方々だけみてもミステリの度合いというか好みというか方向性はかなりバラバラなはずで、そういう人達がこうして頭を突きあわせて話が出来るのもどこかにミステリのエッセンスを愛する気持ちがあるがゆえだと思われる。そのミステリのエッセンスというのも決して確定した一つの要素ではない」とゆー文章にうまく言い表されています。
例えるなら、各地の古老が語った本格ミステリ伝説を、どこかに伝説の源となった王国が実在したはずだとそれぞれの古老のディテールの違いを無視するのではなく、ありのままに受け止めてやろうと。本格ミステリ伝説が伝播拡散するにつれ変容していくのをそのまま受け止めつつ観察し、なかなか変容しない普遍性はなんなのか、逆にあっという間に変容していく箇所はどこか、そしてどのように変容していくのか、そこからなんか論じようという文化研究的態度であります。
この文化研究的態度にあてはまるものとして、MYSCON4では夜明け頃、市川憂人さん(Anonymous Bookstore)や蔓葉信博さん(白黒学派)辺りが語っていた(と思うんですが杉本は眠くて遠くから見てただけだからよくわかんなーい)本格ミステリにおける「基礎的なプロット」があります。なお2003年3月23日午前9時半現在、まだお二人ともこの辺りのレポートは書かれていないようなので「基礎的なプロット」という名称も杉本の捏造です。
エートね、つまりどんな本格ミステリにも基本的に「謎の提示―解体」というプロット、もしくはそのバリエーションが存在するのではなかろうかと。
物語とゆーのはたいがい「展開」があります。あれが起きてこれが起きて最後にああなった、という連なりですね。で、更に「手がかり」と「伏線」のある物語がある。先の展開を予測できるのが「手がかり」です。で、後のほうの展開から「実はこの展開は必然性があったんだよ~ん」という形で示されるのが「伏線」です。もちろん、慣れた読者は「伏線」が「伏線」であることに気付いて展開を先読みできたりするので、あんま「手がかり」と「伏線」は厳密にはわけられないわけですが。
で、この「手がかり」と「伏線」がある「特異点」を前後に両方そろったのが「謎」ではないかと杉本は勝手に思い込んでいるのです。つまり「手がかり」と「伏線」からなる「謎の提示―解体」です。
大事なのは、この基礎的なプロットがあることが本格ミステリの定義であると言いたいわけじゃないことです。そうではなく、この基礎的なプロットに対する様々なバリエーションこそが本格ミステリ伝説の拡散と変容を理解するキーではなかろーかと。
例えば手がかりと伏線の関係を緊密にし、特異点を一点に封じ込め、そこに読者への挑戦状とかを挟むと「フェアプレイを意識した犯人当て小説」になります。また謎の提示―解体を何重にも張り巡らせれば「どんでん返し」になります。また謎の提示をあえて読者に明示せず、全然関係なさそーなエピソードをいくつもだしておいて最後に「実はこんな謎があったんだよー」と謎の解体に雪崩れ込む作品が叙述トリック作品や日常の謎派にいくつかあります。
本格ミステリ読者はこういう多様性の中で自分の好みとなる展開がされる作品を探し求めるわけです。逆に言うと、いっけんバラバラで無茶苦茶としか思えない本格ミステリ作品の多様性の裏側には、ちゃんとこうゆう基礎的なプロットが存在するのです(……多分)。
とまー、こんな感じの論議が文化研究的態度に当てはまるかな、と。
さて、長々と書きつづってきたこの雑文も終わりに近付いて参りました。つーかもう連休終わりだし。せっかくの休みなのになんでこんなしょーもない文章長々と書きつづってるの(号泣)。
最後に杉本の私感をひとつ(全部私感やんとゆー突っ込みはともかく)。
現在の本格ミステリにおける多様性を杉本は肯定したいと思います。確かに多様性を得る代わりに本格ミステリとはなんなのか共通理解を得られなくなってきています。しかし、本格ミステリの進化とはそもそも論理ゲーム空間(限定された登場人物、閉鎖的空間、人工的整合性)の拡張と逸脱、掟破りの歴史ではないかと思うのです。その意味において、本格ミステリ定義論とは常に実作品により裏切られることにこそ意義があると認識しています。
てゆーかその前に積読を解消しないとね!(泣)