川の流れが、いつの間にか緩やかになっていた。漠々が目を凝らして、対岸の木立の様子を観察している。あれほど激しかった風雨の音が、いまはなにも聞こえない。
「おかしいな」漠々が立ち上がる。
「台風が通過するには早すぎる」
 外の様子をうかがおうと歩き出す漠々の後を、ボクも立ち上がって追った。
「今のうちに車を元に戻せば、走れるんじゃ?」
「そう……そうだね」
 不意に漠々が立ち止まり、背中にボクはぶつかった。どうしたのと訊く前に、数メートル先の地面が目に入った。うっすらとだけど、明るい。橋の影と外とでそれとわかるくらいの明暗が浮き出ている。
 ボクは漠々の腕にすがるようにした。二人、ゆっくりと歩き出す。予期するものを胸に秘めながら、声もなく歩きそして明暗境界線を超える。見渡す限りの草原は暗く、ただうっすらと黒い波のような模様が見える。離れた場所で逆さまになった車が点けっぱなしの車内灯で草の波を浮かび上がらせている。ボクらはゆっくりと空を見上げる。足を進めるたびに、真っ暗な橋の裏側から深い藍色の夜空が顔を覗かせる。天頂に近付くほどそれは明るさを増し、星々という名のダイヤモンドが散りばめられたエメラルドグリーンのタペストリーへと姿を変えていく。
 それは、想像を遙かに超えて美しかった。星間ガスと恒星からの強烈な放射線が造りあげるガラス細工。これさえなければ同じ恒星系内にある兄弟星のグリと倶楽が通信を交わすのはたやすいことだ。そう知ってはいても、この美しさを前にして皮肉を漏らす気持ちにはとてもなれなかった。
「そうか、台風の目だ」
 先を歩いていた漠々が、急に早足になった。振り返って早く来いとボクを手招きする。
「急いで。よく知らないけど、もしかすると数分でまた嵐になる」
 駆け出す漠々の後ろ姿を、慌てて追った。膝上まである草をかきわけるようにして、車があるほうへ進んだ。エンジンは生きてるだろうか、そう疑問に思いながら近寄るとラジオの音声が聞こえてきた。逆さまになった衝撃で勝手にスイッチが入っていたようだ。ノイズが相変わらずひどいけど、なんとか聞こえる。後部座席のドアを開けて潜り込もうとする漠々に追いつく頃、アナウンサーの声がした。
「……確認が入りました。ただいま確認が入りました。二十三時五十二分十七秒、グリ星からの通信が完全に途絶えました。完全に途絶えました。二十三時五十二分十七秒、倶楽とグリは永遠の別れを迎えました……」
 車から少し離れたところで、ボクは立ち止まった。黙って夜空を見上げた。こみあげてくる怒りを抑えながら、瞼が熱くなるのを感じた。なにが永遠の別れだ、ボクらはなにもあきらめてなんかない。
 漠々がそっと立ち上がり、こっちに歩み寄るのを感じた。
「ねえ、知ってる? グリの消えた文明のこと」
 不意にボクの口から、言葉が突いてでた。
「グリラーは陽気で明るくて、頭がよくてポジティブだって君は書いてたね。そう、確かにそうだよ。でも引き替えに、僕らがどうしようもなく破滅的なのは気付いてた? 死因の六割が自殺だってことは? 歴史学者は最低でも五つは自己崩壊した文明を発掘してるよ。この空の向こう側にいるのは、外見ばかり気にして誰とも心を交わさず、目先の利益ばかり追い続ける醜い異星人さ」
 わかってる。グリと倶楽の数万年単位で周期的に変化する公転軌道を、変える術はない。もうどんな文字も音も光もグリには届かない。でも、それは今だけだ。きっと今だけだ。
「ズィラ……」
「ねえ、ボクの小説のこと覚えてる? 君が初めて感想をくれた、あの小説」
「複性生殖の話? 二人の人間から遺伝子を半分ずつ混ぜ合わせて一人の子供を作る話?」
「うん、ボクはね、この星で子供を産むよ。その子供にも、絶対に子供を産ませる。倶楽人みたいに子供と一緒に暮らすんだ。そしていつか、生物学者がグリと倶楽の両方の遺伝子を持った人間を創ってくれる。そのとき本当のフォレストがこの星を覆うんだ。それから、君のロケットでボクの星も……」
 横を向くと、すぐそこに立つ漠々が夜空を見上げていた。ボクを乗せたロケットが墜ちてくる海上に、メールで伝えた通り船で先回りしてくれていた漠々、怒りもせずただ抱き締めてくれた漠々。通信の途絶えていた間にグリで瞬く間に盛り上がったロケット開発運動のことを、伝えたい気持ちはもちろんあった。でも通信状態の悪さと、なによりいったん火のついたグリラーの行動スピードがそれを許さなかった。技術はすべて漠々が用意してくれていたし、もともとグリは倶楽より遙かにロケット打ち上げに適してる。宇宙飛行士に祭り上げられ、短期間で訓練と技術学習をこなし、気付けばコックピットにおさまっていた。
 胸の内を、宇宙空間から眺めた青いグリ星がかすめる。ボクの故郷、大きさが倶楽の四分の三しかない、第一脱出速度で充分の小さな星。
「いつか、あの空を二人で飛ぼう」
 漠々の言葉に、ボクはうなずく。いつの間にか降り始めた雨粒が、ボクらの頬をやさしく叩いている。南西の方角から空を覆いつつある黒雲の存在に気付いてはいたけれど、ボクも漠々も、しばらくこの夜空から眼を逸らすことはできそうになかった。