君に別れを告げなければならない。それも、永遠に。僕には身内もなく、大学院の試験に失敗した孤独な就職浪人で、親友と呼べるのは君だけだったから、事情を説明しなければならないのは君だけだ。これから記そうと思っている僕の体験は、どれもこれもが非現実的かつ超自然的で、とても信じてもらえそうにない。僕があの古ぼけたアパートからいなくなっても誰も困ったりはしないだろうけど、人間一人いなくなれば警察くらいは来るかもしれない。もしかしたら、僕の主治医も。ほら、以前君にも会ったことのある、黒縁眼鏡に鷲鼻のいけすかない医者のことだ。そんな奴らが僕の行方について君のもとを訪ねたときに、この手紙のことを教えるかは君の自由だ。手紙ごと渡してくれてもいいし、なんなら逆に読み終わった後で焼き捨てて、僕の奇妙な体験をこの世から葬り去ってくれたって構わない。なぜって僕はもう、この世とは縁のないところへ行くんだからね。ただ君になにも説明せずに別れて、心残りになりそうなのが嫌なだけだ。何年何十年待ってくれたって僕はもう君の前に二度と姿を現すことはない。別れは辛いけど、それだけは伝えておきたい。
最初から、順を追って説明しよう。君には何度か僕の奇妙な感覚や症状について話した覚えがあるけど、細かく説明しなかったことやあえて触れなかったこともあるし、話を整理するためにも全部をここに記そう。そもそも、そうやって僕が……あるいは世界が……捻れ、歪み、逆転していった経緯をゆっくり順番に説明しなくては、あのときのように君に悲鳴をあげられ拒絶されるだけだからね(もう、あのことは気にしてないよ)。
そう、あれは春だった。お昼前、タオルケット一枚でウトウトしていた僕はうとうとしていた。土埃に煙る窓硝子に半透明の石英のような陽射しが差し込んで、タオルケットから飛び出た素足をポカポカ暖めている、そんな長閑さだ。テレビは都心ならゴールデンタイムにやってる番組を流してて、面白かったけど音声がもうぼんやりとしか聞こえなくなっていた。畳の上に放り出されたままの洗濯物……コーヒーの染みが付いた皺だらけの写真雑誌……ゴミが溢れ出してるゴミ箱代わりのスーパーのビニール袋……四畳半の真ん中に、半覚醒で仰向けになって転がる自分……倦怠と頽廃が手をつないで平和的に惰眠を貪っている、悪夢開始の五秒前。
四、三、二、一……グラリ、と揺れた。部屋中の紙屑が、舞い踊るような無重力感。
思わず身を固くしたよ、地震だ、てね。だけど間の悪いことに、金縛りになって瞼が開かない。身体が動かない。空回りするロケットエンジンだ。「こちらヒューストン、応答せよ」と何度も呼びかけているのに指先一つピクリとしない。奮闘してる間も、バネの振動の残滓のような、微かな揺れが続いてる。僕の真下に天秤を支える軸があって、部屋全体があっちへふらり、こっちへふらり、グラグラグララと揺れている感じだ。地震にしてはなんだか妙な揺れ方に思えてきて、そうこうしてるうちに、今度は回転の衰えたコマみたいに、部屋全体がグルグル頭を揺らし始めた。その頃には、これはただの地震じゃない、なにか尋常でないことが起きてる、そんな確信があった。とにかく、目を覚まそう、この部屋から逃げ出して表の様子を見て来なきゃ、そんな考えで頭がいっぱいになる。だけど身体が思うようにならなかった。必死になってるうちに、姿勢を仰向けから横向きに、そしてうつぶせにすることができた。何度か意識が遠のきながら、やがて正体不明の揺れは収まり、テレビのニュースの音が聞こえてきた。しばらく、無自覚でそのニュースに耳を傾けていたけれど、ふと、自分の身体が思うように動くことに気付いた。それで僕は目を開けて……低い天井の木目に浮かぶ人の顔みたいな模様を、馬鹿みたいに眺めた。
しばらく経って、妙なことに気付いた。どうして、天井が見えるんだろう……さっきうつぶせに身体の向きを変えたはずなのに。
思えば、それがすべての始まりだったんだ。
それを機会に、些細な、それでいてどうにも不可解な、奇妙な体験を僕は重ねていくことになった。
例えば、こうだ。君の研究室に遊びに行ったときのことだった。君は試験の採点に忙しかったようだから(院生てのは大変なんだね)話す機会を逃したけど、研究室のある階に上がるのにエレベータに乗ったときのことだ。ほら、あの大学生とは思えない低脳な落書きだらけの、やかましいエレベータさ。僕は五階へのボタンを押した。すると、フワッと身体が軽くなった。あれ、下に降りてる、ボタンを押し間違えたかと階数表示を見ると、ランプは確かに数字の大きい方に移動している。あのエレベータの中は煙草の吸い殻とそのヤニみたいな汚れがへばりついてるから、どうにも階数表示なんか信用できなくて、きっと故障してると思った。ビクビクしてた。壊れてストップして、室内灯も消えてしまって閉じこめられるんじゃないかと。けど、下向きの重力加速度を感じながらエレベータが止まって、ドアが開くと、そこは間違いなく五階だった。
注ぐ、という行為が難しくなった。湯沸かしポットを前にして、お湯を出すためのボタンを押せないまま、ボーッとしてる僕に君は気付いてたと思う。テレビのコント番組でよくやるじゃないか、セットをさかさまに作り、芸人も逆さまに身体を固定しておいて、カメラを上下逆さまに撮影する。手を放したものは落ちずに重力に逆らって空に飛んでいく(ように見える)。それと同じことが起きそうな気がして仕方なかった。ボタンを押したら、お湯はまっすぐ落ちずに、重力に反して逆U字型の放物線を描いて天井に流れ落ちるんじゃないだろうか? アパートでは、コンビニで買ってきたペットボトルをラッパ飲みするからそんな心配もなかったけど、ときどき、飲み口をくわえて飲み物が口の中に流れ込むのを今か今かと待ちかまえているのに、いつまでも飲むことができないことがあった。我に返ってみると、ペットボトルのお尻は天井を向いていず、僕は飲み口を斜め上に向けたままで飲もうとしていた。
春先には珍しい程の激しい雨が降った夕方のことを、君は覚えているかい? バイトの帰りにそれにでくわした僕は、傘を持っていなかった。幸い、街の中でいきなりじゃなくて、地下鉄から地上への出口を上がってきたら降っていたというパターンだったから、そのまま地下鉄出口の屋根の下に雨宿りして、やり過ごすことにしたんだ。貯金なんかないのに、風邪で入院なんてとんでもないからね。
雨足は予想に反して強くなってきた。急ぐ身でもないから、ぼんやり眺めてなにか考えにふけっていたよ。気が付いたとき、なにかとてつもなく、奇妙な感覚が襲ってきた。西の空から薄曇りの雲を割って夕陽が差し込んでいる。傘の花と帰宅ラッシュの車が行き交う交差点、そこらはレストラン街で、灯り始めた大きな看板の巨大なイルミネーションと夕闇近い空気の色……黄土色と茜色が入り混じった奇妙な色彩……がまだ薄曇りの東の空をバックに浮かび上がる様子はまるで異世界だった。か細く降り続ける雨粒の一粒一粒がキラキラ銀色の光を反射しながら……天に向かって舞い上がっていくのを、僕は見た。思わず溜め息を洩らすほど美しいと感じながらも、それは有り得ない光景だと頭の中ではわかっていた。そう、雨は落下するものだ。それがこの世の法則というものだ。だけど僕は濡れて黒く染まったアスファルトや行き交う人々の傘から空へと舞い上がり無限の虚空に吸い込まれていく雨の中に思わず飛び込んで両手を広げながらクルクルと身体を回転させて奇跡のような光景を一瞬足りとも見逃せないとばかりに歓喜に溢れて雨と戯れた。まるで何十年ぶりに故郷に帰ったような、懐かしさで胸がいっぱいになる喜びにそれは似ていて、ほのかに甘酸っぱい香りを鼻孔に感じた気がした。
そう……その日以来、僕はまともな社会生活を送れなくなったんだよ。
葉桜の並木道を、うつむきながら歩いていた毎日を思い出す。直接みつめると、確かに花びらは黒い樹皮をまとった枝から降っているのだけど、歩きながら横目にうかがうと、音もなく花びらは舞い上がっていく。日に日に盛りを過ぎていく桜が、不思議に思えた頃だった。四六時中、めまいと吐き気に熱病患者のように悩まされ、バイトも辞めてアパートにこもる日々が続いていた。それでも、どうしたって外出の用事はできるものだし、一日中寝っ転がっているわけにもいかない。病院には行ったけど、診察ではどこも悪いところはみつからなかった。奇病と判断されたのか院長先生が医師団を結成し、治療費が払えないと尻込みする僕に一枚の紙が差し出された。黒っぽく見えるほど活字が詰まった文章のいちばん上に、誓約書という文字があったよ。魂と引き換えに願いを叶える悪魔が、白衣を着てるだなんて初めて知った。どうすればよかったと思う? こんなわけのわからない病気を抱えて、僕はまったく就職を諦めていた。なんとか入院することだけは避けれたけれど(だってそれじゃ、本当にモルモットだからね)病院に行くための並木道で将来を思い悩む時間は、僕には本当に地獄の責め苦に思えた。
子供の頃のことを、よく思い返したよ。母さんの手鏡を持ち出して、それを床に水平に、鏡面を天井に向けて、鏡の中を見ながら家中を探検するんだ。まるで世界がさかさまになって、天井を歩いている不思議な気分がした。思わず蛍光灯を避けたり、階段を踏み外して転びそうになったり。いつだったか、病院で診察を受けた後で、一階まで降りるのにエレベータが混雑していた。そこは四階で、大したことはないと思ったから階段を下りることにした。デパートなんかと比べると狭くて、四角い筒の中にあるような鉄板と鉄パイプの階段だった。誰ともすれ違わなかったのが、まずかったんだ。しばらく降りていく内に、僕は上下がわからなくなった。錯覚や騙し絵の類で、階段を上っている人と、その階段の裏に逆さまに立っている人が描かれているイラストがあるだろう? 僕の場合、視覚だけでなく、重力感、不安感、そして、どこかに吸い込まれていきそうなめまいが一緒だった。僕は手すりにつかまり、必死に身体を支えた。幻覚なのはわかっている、こんなのは嘘だ。なのに恐怖がとまらない。汗に目がかすみ、足は震え、とうとう僕は一歩も降りることができなくなった。白いペンキの塗られた冷たい手すりにしがみついて、僕は倒れ込みそうになるのをなんとか支えた。手すりの向こう側を見下ろすと、ひとつ下の階段を二匹の黒い小さな尻尾のある裸の怪物が、小さな金色の瞳をパチパチさせながらこっちを指差してキイキイ鳴いては飛び跳ねている。理性では、そんな化け物が存在しないのはわかっていた。そもそも、僕が見下ろしているように感じるということは、その怪物達は階段の裏側に逆さまに立っているんだ。
どれくらい時間が経ったのかわからないけど、一人の看護婦に発見されて、なんとか命は助かった。記憶がなくて、その看護婦から後で聞いたんだけど、僕は手すりを乗り越え、腕だけで手すりにぶら下がり、なんとか足の裏を階段の裏につけようと苦闘していたそうだ。
アパートに見舞いに来てくれた君を驚かせてしまったのは、その頃のことだったかな。覚えてるよ、研究室に遊びに行ったときのこと。古い駄洒落だねって、君が僕にかけた言葉。さかさまに新聞紙を読んでる僕を、コーヒーカップ片手に君は笑ってたね。寂しかった。でも、笑われるくらいならまだよかったんだ。アパートの玄関ドアを開けて、クッキーと週刊誌の入った紙バッグを提げた君が、僕の部屋と僕の姿を見るなり立ちすくんで、ぽっかりと開けた口から悲鳴が漏れたとき、僕は君にインフルエンザだなんて嘘をついてたことを後悔した。もう外にでるのがひどく苦痛で、君に会いに行くことはできなかったから、仮病でも使うしかなかったんだ。あの頃、僕は自分に起きている異常なことが、いつかは醒める悪夢のようなものと思い込もうとしていたから、どうしても君に相談することはしたくなかった。治るまで、秘密にしたかった。
確かに、あの部屋は異常だったかもしれない。物干し竿、スキー板、国旗の棒、掃除機のホースの真っ直ぐの筒、杖、傘、ゴミ捨て場から拾ってきた五段飾りの雛壇を組み立てるセットが、いちばん役に立った。ありとあらゆる細長い棒を登山用ロープや延長コードで縛り、つなげて、四畳半の部屋に縦横無尽に張り巡らせ、怪獣に踏みつぶされたジャングルジムみたいな代物にしがみつくことで、僕はどうにかどこかへ落ちていくことから救われていた。あの不格好な眼鏡は、医者に貸してもらったんだ。イメージ転倒ゴーグルとかいう……鏡仕掛けで、視界を上下さかさまにするものなんだ。あれなしでは、もう僕は生活できなくなっていた。けど、四六時中つけているのも面倒だ。冷蔵庫やテレビがさかさまになっていたのは、そういう理由なんだ。
あの後、君を追いかけて、入院することになったのは運が悪かったんだ。遅かれ早かれ、そういう日が来るのはわかっていた。だけど、本当に恐ろしかった……表に飛び出た君に事情を話そうと、一歩、外に飛び出た瞬間の、あの果て無き虚空……五月の澄み切った青空に、僕は叫び声をあげて地面にへたりこんだ。つかまるところを探したけど、どこにもなかった。雲の高み目指して無限に落ちていく僕の周囲で尻尾のある二匹の黒い怪物がけたたましく笑い転げる声に鼓膜を激しく振動させながら泡を吹いて意識を失った。
入院してからの日々は、ある意味、幸福だったのかもしれない。医師達は、あの偉ぶった態度さえやめてくれれば、充分に僕に配慮してくれたよ。個室だったのは、医学的な研究対象という意味での特別患者だったせいだろう。天井に白くて分厚いゴムを貼ってくれたし、本当に部屋中に手すりをつけたり、床から天井まである突っかえ棒を何本も用意してくれるとは思わなかった。空が見えないよう窓がなかったし、身体的な方向感覚意外は正常だったから、面会謝絶にもならず……君が毎日、来てくれた。いつも仰向け、いや、うつぶせのままで迎えて、すまなかったね。床擦れができてしまうから、医者には注意されていたけど、どうにも起きていると気分が悪くなって駄目だったんだ。食後すぐは特に駄目で、食べたものを吐き戻しそうな不快感に襲われた。食べてたのは、皿からこぼして汚したりしない、パンとかゼリーとかばかりだったけどね。
黒縁に鷲鼻の、精神科が本業だとかいう主治医は(院長の右腕なんだそうだ)、メニエール症候群という診断をしていた。内耳の障害で、平衡感覚がおかしくなる病気なんだそうだ。人によっては、身体の一部が大きく膨らむように感じられたり、距離感がおかしくなってしまうという。だけど、僕のように上下の感覚だけが変になるというのは初めての症例だったらしい。悪魔みたいな尻尾のある怪物はなんなんですかと質問したけど、医者は黒縁眼鏡の位置を直しただけで、ごにょごにょ言い訳だけして答えてくれなかった。インクの染みみたいなマークからなにを連想するか訊かれたり、生い立ちを憶えている限り話すよう求められたし、飲み薬には抗鬱剤もあったから、どうやらなにか精神的な異常による幻覚をみていたと診断したらしい。確かに、気が狂っている自覚はなかったけど、君や、医者や、病院内の看護婦や患者や見舞客すべての人と会うたびに、僕は自分がまったく別の世界に住んでいることを思い知らされずにいられなかった。みんな当たり前のような顔をして逆さまに床にぶら下がっているのだから。唯一、僕のベッドに毎晩様子を見に訪れる二匹の黒い怪物だけが(君にも医者にも黙っていた……ごめん)、天井の真っ白なゴムの上に、まともに二本の足で立っていた。僕は……君に会うのが、次第に辛くなってきた。研究室で起きていることを話してくれる君、いつか治って、また元の生活に戻るよと元気づけてくれた君、だけどそんな君の笑顔を、僕はイメージ転倒ゴーグル越しでなければ、まっすぐに見ることができないんだ。
ベッドの上で、梅雨のまっただなかにある外界のことをぼやく君の声にうなずきながら、あの春の日の、空に舞い上がる雨と、それに戯れながら胸一杯に満ちた懐かしさに疑問を感じ……そして、思い出した。物心つく前の、わずかな記憶。
あいつらが手招いている。そろそろ、この手紙も終わりにしようと思う。
数時間前、いつも通り夜中にやってきた二人の怪物に、声をかけた。そいつらの言葉はわからなかったし、相手も僕の言葉はわからないらしいけど、意味するところは互いに身振りなどでわかったようだった。
僕らは病室を抜け出した。二匹の怪物は天井を歩き、僕はめまいに悩まされながら廊下を進んだ。エレベータに乗り込むと、怪物達は鋭い爪の生えた指先で、跳ねながら無茶苦茶にボタンを押し、エレベータは上昇、いや、下降し始めた。ひどく長い時間が経った気がした……本当は数分程度だっただろうけど。
エレベータのドアが開くと、そこには、憶えていた光景が広がってたよ。
それから、僕らは病室に戻ってきた。この手紙は、ちゃんと君の手に渡るよう、ポストに投函していくつもりだ。できれば、そのとき、あの美しい雨が僕を包んで、灰色の空に吸い込まれそうになる恐怖を和らげてくれますように。僕の、想いが届きますように。
書き忘れていたけど、研究室の本棚に漫画や雑誌が逆さまに入っていたら、それはきっと僕のせいだから、謝っておくよ。見舞いに買ってきてくれた小説は、君の代わりだと思って持っていこうと思う。泣かせたり、怒らせたり、いろいろすまなかった。気弱になった僕を見守ってくれてありがとう。勝手に別れを告げることを、許してほしい。君のことは忘れない。ごめん。本当に、ごめん。
さよなら。もう、行くよ……地球の中心の小さな太陽に照らされた、僕の古里に。