我が友人、本田秀一朗ほんだ しゅういちろうを発狂せしめた罪の恐らく九割以上は、おそらく僕、こと谷川尚純たにがわ なおすみにあるといえよう。
 いや、誤解しないで頂きたい。秀一朗君と僕とは高校の「パズル同好会」以来の長いつきあいだし、そもそもあの「箱」を作ったときは僕には秀一朗君をこけにする気などまったくなかったのだ。あれは単なる悪いジョーク、そう、まさにブラック・ジョークそのものでしかなかった。まったくのユーモアのつもりだったのだ。パズル仲間だけが持つ、あの独特の悪ふざけを僕もやってみたい、ただそれだけだったのだ。
 ああ、そう、確かにその悪ふざけをするには本田君は相手が悪かった。高校を卒業したあと生来頭のできの良くなかった僕はそれでも何とか二流国立大の工学部に滑り込んだが、彼は違った。同好会の中でも彼の天才振りには皆驚いていたが勉学の方も良くできた彼は僕には百年かかっても無理と思える超難関大学にパスした。そのためしばらく連絡が途絶えていた僕には彼があんなにも屈折したパズル狂になっていたとは知らなかったのだ。
 本当だ。そうでなければあんな、まさにパズラーのためのパズルなんて作るはずがなかった。僕は大学を卒業後エンジニアとして働き始め、やがて結婚し、二児の父親として平々凡々に暮らしてきた。高校以来、正直言ってパズルとはほとんど縁を切って暮らしてきたのである。いま僕にある趣味と言ったら日曜大工ぐらいだ。そんな僕が彼と偶然再会したのは三カ月前、初秋の夕暮れのことだった。

 秋の日は釣瓶落としとは良く言うが、確かにその日は陽が暮れるのが早く感じた。娘二人を連れて妻と共に子供向けアニメ三本立ての映画を観に行った帰りだった。少々早いがいつもの中華料理屋で飯にしようじゃないか、と僕が主張するのにたまにはどこか別のところにしましょうよと妻が答えるので、駐車場に向かわずに飲食店街を家族四人連れだって歩くことになった。そんなとき後ろから声を掛けてきたのが、なつかしくもあの本田秀一朗君だった。
「君! 君! そこを行く君は谷川君かい?」
 振り向かなくともそれが誰であるのかはすぐに分かった。「君! 君!」は高校時代からの彼の有名な口癖だった。
「本田君、久し振りじゃないか! 確か、京都の方に行ったんじゃなかった?」
「おいおい、卒業してから何年経ったと思ってる。仕事の関係で最近こっちに越してきたんだ」
「そうか、てっきり君は大学院にでも進んだのかと……じゃあ、いまは何を?」
 すると彼は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「なんだ、知らなかったのか。俺もまだまだこんな認知度が低いようじゃ駄目だな。高校の時からの病がこうじて、とうとう作る側に回ったのさ」
「というとパズル創作家? 実際に製品を作っているのか?」
「まあ、そんなものだ。あとは文章だな、雑誌のパズル・コーナーに連載したりパズル集を出したり、なんとかボチボチやってるよ。パズルのほうは君、最近やってる?」
「いや、いまはもうすっかり普通のオジサンさ。今日も家族を連れて映画を観てきたんだよ」
 僕はちらりと家族達のほうをうかがった。少々友人の視線が気になった。
「これから夕食かい? この辺りなら詳しいから、いい店を案内してやろうか?」
「え? ああ、それはありがたいな」
「よし、それなら善は急げだ。連いてきなよ」
 そして彼は悠々と僕たち家族の先頭に立って黄昏の飲食街をさっそうと歩きだした。僕は娘達の手を引きながら彼の背を見つめて、相変わらずだなあと少し笑った。

 結局その日は僕の家族達に遠慮したのか店を紹介してもらっただけで別れた。代わりに彼の新しい住所を教えてもらったので、近いうちに必ず寄らせてもらうよ、と約束した。僕は社宅に家族と共に住んでいるのだが、そこの最寄りの私鉄から駅二つ分ぐらいだった。
 彼の家を実際に訪れてみたのはその再会の日から一週間が経った、ある日曜のことだったと思う。
 どんより蒼鉛色の空の下、雨がしとしと絶え間なかったので傘を持って一人で駅から歩いて行った。郊外の古い住宅が並ぶ町並みだった。瓦屋根が並ぶ細道は家々の軒が迫っていてただでさえ雨雲で曇った道を暗くしている。絶え間ない雨粒がぽつぽつと傘の上で柔らかい音をたてる。ここら辺は一軒一軒の家屋がやけに広くて、社宅住まいの僕には何だか羨ましい。彼がこんなところに住むというのは活動的な彼になんだかあまり似つかわしくない気がしたが、住環境としては良い土地ではなかろうか。
 迷わず彼の家にたどり着いた。あらかじめ電話はしておいたので快く迎え入れてくれた。独身なので家には彼しか居ず、長い廊下を先にたって案内してくれた。今時珍しい平屋造りなのには驚かされたが、彼が言うにはここはもともと住んでいた家族が夜逃げ同然に出て行ってしまったのだそうだ。
「不動産屋の奴は口を拭って知らん振りしてたがね、ナニ、そんなことは近所の人間のひそひそ話に真面目に耳傾けてりゃ、ぴんとくるものだよ」
 彼はこういうことを実にこともなげに言うのだ。
「しかし君、そんなうちに住んで気味悪くはないのかい」
 実際、広くはあったが、古い家特有の薄暗さとかび臭さがあちこち漂っていて、長い廊下を彼の部屋に向かう間少々背中に悪寒を感じそうになるほどだった。すると彼は呵々大笑して、
「何が薄気味悪いものか、別にその家族は夜逃げしただけで一家心中したわけではなさそうだから安心したまえ。ほら、ここが僕の部屋だ」
 と言って傍らの障子を音もなく、すぅ、と開いた。
「おぉ、これは……」
 少々、唖然とした。隣で彼は自慢げに、にやにや笑っている。
 その部屋はあらゆるパズルおもちゃでいっぱいだった。彼のコレクションなのだろう、左右の硝子戸棚や奥の書斎机の上にも、色とりどりの奇妙な形をした木片、プラスチック、象牙、金属等で出来た箱のようなもの、板の形をしたもの、何かのゲーム版のようなものが処狭しと並んでいる。この和室は恐らく十畳ぐらいは本当はあるらしいが、窓が書斎机の上に狭いのがあるきりで薄暗いのと膨大な量のパズルのせいで半分の広さにもみえない。
「これはまた、よく集めたものだねぇ」
「うん、なにせメーカーが新製品を作るたんびにくれるものだから最近は収拾が効かなくてね、参ってるんだよ」
 などと彼は言いつつもその口元はにやついていて明らかに自慢げだ。
「まあ、適当にそこら辺に座ってくれ、茶と煎餅ぐらいはご馳走してやろう」

 こうして僕達は楽しい半日を過ごした。いつの間にか彼が出してくれていた番茶は透明なやけに香りのいい飲み物に替わっていて帰ってから妻に叱られてしまった。次の日は二日酔いで苦しんだが、なに、旧友との楽しみでこれに勝るものはない。彼との会話はやはり高校時代の思い出話が中心となった。無論、彼のパズル・コレクションもたっぷり楽しませてもらった。
 幾つかのパズルを借りた僕はその日以来、賢明にかつての勘を取り戻そうと悪戦苦闘を始めた。パズル仲間の間では、あまり「降参」などと言う言葉を吐くことは有り得ないし、それが屈辱に思えるほどの人こそパズルが楽しいのである。
 僕がその時借りたのは十八世紀ビクトリア朝にヨーロッパで盛んに作られたというマッチ箱である。なぜマッチ箱がパズルなのかというと、当時のマッチは黄リンを使っていたため擦るだけで簡単に火がつくのだけれども、その代わり猛毒だった。だから子供がいたずらしてマッチの黄リンを嘗めるなどという事故が起きないよう、当時のマッチ箱はそのままでは簡単に開かないような仕掛けが施してあるのである。
 これが現代の僕たちには格好のパズルとなるのだ。無論こんなものが日本で市販されているわけもなく、本田君がわざわざ諸外国の古物アンティークを売る店やバザーを通して手にいれてきたものである。僕はしばらくその箱を開けるために……そう、ただ箱を開けるために会社の昼休みや家に帰ってからの本来ならば晩酌やテレビを観るためにある時間を費やした。
 木製の箱、金属で出来た箱、押したり、回転させたり、スライドさせたり、がんがん叩いてみたり、僕は試行錯誤派なので、そういうことを休みの日には一日中繰り返すことになる。無論、彼は思考派だ。高校生の時、パーツを組み合わせて立方体を作るシュタインハウス・キューブというパズルを、いっさい手を触れず頭の中だけで完成させてから、僕たちの目前で瞬く間に組み合わせてみせたことがあったほどだった。
 十二、三個ばかり借りてきた箱の半分ばかりを開けた頃だったろうか。彼の家への訪問から半月ほどたった日曜日のことだったと思う。応接間でテレビを観る子供達の傍らで僕はソファの上に寝転がりその箱に悪戦苦闘しながら、今度この箱を彼の家に返しにいく日のことを考えていた。
 どうせだから彼を唸らせるようなパズルを、お返しに貸してやりたい。しかし、僕が高校の時に集めていたパズルおもちゃはすべて実家に置いてきたし、たとえそれを彼に貸してもパズルの専門家となった彼には造作もなく解けるものばかりだろう。できれば、なにか彼をぎゃふんと言わせるようなものを、どこかで売ってないだろうか。
 箱をいじり続ける僕の眼に、ふと、自分がその時していた腕時計が目に入った。
(あ、そうだ……)
 いっそのこと、自分でパズルを作ってみようかというアイデアを、そのとき思い付いたのだった。

 もちろん、僕の力だけではそのとき思いついたアイデアを形にするのは無理だった。パズル作家としての本田君自身の力が必要だった。僕が彼に仕掛け箱や組木の箱を造っている業者の人を紹介してくれないかと頼むと、彼はどうやら僕のたくらみに気付いたらしく、「楽しみに待っているよ」と言いながら、ある木工業者の電話番号を教えてくれた。
 僕は彼から借りた残りの箱を急いで解くと、本田君のためのパズルの設計に取り掛かった。
 木工業者に制作を依頼し、自分でも日曜大工の腕を奮うこと一カ月、僕は完成したその箱を懐に、借りていた他の箱パズルと一緒に彼の家を訪れた。

 その日も、やはり雨が降っていた。彼の家を訪れると、誰か先客が来ていた。遠慮して出直そうかと思ったが彼が構わないというのでしばらく待つことにした。
 先客は出版者の人間だった。松崎です、と名乗って彼は僕に名刺をくれた。本田君に次の作品についての企画、構想について話し合いにきたのだという。名刺の住所が東京になっていたので、こんなところまで原稿を毎月受け取りにくるのですか、と訊くと、いや、本田先生はパソコンが使えますから、と答えた。メールで送るということか。二十分ほどで松崎は帰った。
 前と同じ部屋で書斎机の前に座る彼の前に、僕はうやうやしく完成した箱を差し出した。置くとき、できるだけそっと置いた。僕はフェアなやり方が好きだった。
「ほう!、ほほう!、これを君が作ったのかい?」
 彼は箱を手に取ってためつすがめつした。白木でできた、あっちこっちスライドさせて鍵のしまい込んである場所や鍵穴を探し出して開けるタイプである。
「あまり動かさない方がいいよ」僕は言った。
「この箱の名前はね、ブラック・ジョーク・ボックス」
「ブラック・ジョーク・ボックス? なかなか深遠な意味がこもった感じの名前だな。“ブラック・ボックス”と“ブラック・ジョーク”を掛けてあるんだろう?」
「うん、まあ解いてみれば何故そんな名前をつけたのかわかるようになると思うけどね……この箱は三重構造になっているんだ」
「三重構造? なにか意味があってそうしているのかい?」
「それも、解いてみればわかるさ。この箱は、箱の中に箱があり、その中にまた箱があるという入れ子構造になってるんだ。仮に、外側から第一の箱、第二の箱、としておこうか、するといちばん内側の第三の箱の中にこの箱の開け方の説明書が入ってるんだよ」
 箱をいじりながらそれを聞くと彼はくくっと笑って、「なるほど、そいつはいいや。開けない限り中がどういう仕組みになっているのかは分からない。だから“ブラック・ボックス”だ。そして開けるとそれまで喉から手がでるほど欲しがっていた箱の開け方が分かる。もうそんなもの必要なくなってからだ。だから“ブラック・ジョーク”というわけだ。なかなか面白いことを考えたじゃないか」
 僕は腹の皮がよじれそうになるのを必死にこらえて笑いをかみ殺していた。違うのだ、ブラック・ジョーク・ボックスの意味はそれだけではないのだ。
「まあ、そんなとこかな。あまり難しく考え過ぎないよう、いつもの理論家の君らしく考えながら解いてくれ」
「うん、うん、でも第一の箱に関しては理論はいらなかったようだね……」
 僕は驚いた。早くも第一の箱を開け、中から灰色に塗られた第二の箱を取り出しながら、彼はにやにや笑っていた。
「さて、と」
 いい暇つぶしになったといわんばかりに、第一の箱と、一回り小さい第二の箱にわかれたブラック・ジョーク・ボックスを傍らに置くと、彼は後ろを向いてパソコンの方に取り掛かろうとした。僕は慌てた。
「お、おい、待てよ。これは内側の箱ほど難しくなるようにできてるんだ、最後まで解いてくれなきゃ困るよ」
「悪いけど谷川君、今日は仕事があるんだよ。雑誌の方が一段落ついたんでね、プログラミングによるパズルの解法の手引きみたいな本を書いてくれないかって頼まれてしまってね。前の本でペントミノの全解を求めた話を書いたのが受けたみたいだな……松崎の奴、パソコンブームに一くち乗ってやろうっていうつもりなんだろうよ」
「そういわれても……」
 それでは、困るのだ。このブラック・ジョーク・ボックスは、途中で休み休みしながら解いたのでは意味がないのだ。
「じゃあ、こうしてくれないか、仕事はしてもいいけど、一時間ごとに十分ぐらいでいいから仕事の手を休めてブラック・ジョーク・ボックスに挑戦して欲しいんだ」
 ああ、別にいいけど、でもどうして? と彼は不審がった。僕はモゴモゴ言ってゴマかした。その理由を言ったら彼に重大なヒントを与える事になってしまう。

 来たときに降っていた雨は相変わらずしみじみと降り続いていた。
 本田君の家を辞した僕は傘をさすと、駅に向かってのんびりと歩きだした。いつだったかこの細道を初めて歩いたときのように、雨粒が柔らかに傘の上で音をたてている。こんな道を歩いていると、どうしても昔の事を想い出してしまう。高校の、パズル同好会時代の事だ。放課後、天文部やクイズ研究会と曜日別で共同使用していた部室に来てみると、いつもは遅刻常習の本田君が一人で先に来ていた。
 当時の事だから、部室は木造だ。年中埃っぽい、狭苦しい部屋だった。クイズ雑誌だの「天体の集い」などと書かれた博物館のパンフレットだのがごちゃごちゃ広げられた会議机の端っこで、彼は難しい顔をして数学の問題集を広げていた。
 宿題だったのだろう。銀色のペンケースの傍らに、いかにもさりげない感じで六本組木が置いてあった。僕は何気なくそれを手にとった。六本組木はパズルの中ではかなり有名なものである。それまで顔もあげずに問題集に取り組んでいた彼はぼそぼそした声で、「十分で出来たら、千円」とつぶやいた。のった、と僕は応じて意気揚々とそいつに取り組んだ。当時既に僕はそれと同じものを同好会の先輩から借りて、試した事があったのだ。五分とかからないはずだった。
 三十秒後、僕は降参した。解けるわけがない。なるほど、確かに彼はそれを六本組木だとことわりはしていなかった。それは、外見だけ六本組木に似せた彫刻だったのだ。その後僕も同様にむっつりした顔で教科書を開いて、続々集まってくる同好会のメンバーを騙したのは言うまでもない。

 本田君との再会から二ヶ月が過ぎた頃だった。
 強い北風が僕のコートをはためかせていた。陽は高く顔をしかめたくなるほどその光は強いのに、初冬に入りかけた季節にこんな殺風景なビルばかりのオフィス街は悪寒がするように寒くてたまらなかった。
 僕は松崎と歩いていた。あの本田君がコラムを書いていたという雑誌の出版社の人だ。相談したい事があるのですがと、受付から連絡を受けて仕事の手をとめ、一階ロビーのソファに肩を狭くして座っていた彼に会いそう言われたとき、はっきり言って僕には何の事かさっぱりわかっていなかった。正午近かったので、どうせなら地下街で昼食でもとりながらにしませんかと誘われ、僕達は外へと繰り出した。
「谷川さん、ブラック・ジョーク・ボックスというパズルをご存知ですか?」
 二人仲良く地下街で僕が常連になっているカレー専門店でビッグ・カツカレーを注文して待っていると、いきなり松崎はそう切り出した。乾いた喉を潤そうと喉に含んでいたお冷やを、僕はすんでのところで彼の顔に吹き出すところだった。
「ぶ、ブラック・ジョーク……?」
「ええ、そうです。どうもかなり最近になって作られた作品のようで、調べてみたのですがこれがまだ市場には出回ってないようなんですよ。本田先生のところにはいろんな玩具メーカーからサンプルが送られてきますから、そのうちのどれかに違いないのですが……」
 松崎の相談というのはこうである。彼の担当作家は一人ではなく、またこの地方にはパズルおもちゃを製作する木工業者等が多いため、取材、企画構想のため大体二週に一度位の割合でこちらに出張する。僕がブラック・ジョーク・ボックスを持って行ったときに会ったのだから、松崎は一週間振りにこちらに来ている事になるわけだ。今回は別の用件のための出張で、本田君のところには義理で顔を出しただけだったそうだが……
「正直言って、驚きましたよ」
 本田君の執筆の手は、完全に停止していた。
 原稿は、全体の三分の一は進んでいただろうか。パソコン雑誌や数学誌にむかし取り上げられた記事やコラムを再利用した文章がほとんどなので一週間分の仕事量としては十分である。問題はそこから先が一行も書かれていないという事だった。
 ビッグ・カツカレーが運ばれ、松崎は嬉しそうな顔でそれをほうばり始めた。
「はっきり宣言されましたよ、しばらく書かないってね。何かの冗談かと思いました。なぜですか、どうしたんですか、て尋ねても答えてくれない。口をモゴモゴさせちゃってね、あんな先生の様子は初めて見ましたよ。いつも自信いっぱいの、俺にかなう奴はこの世にいないって人がねぇ」
 唇の端をカレーでうっすらと黄色く染めながら松崎は吐き出すようにそう言った。
「話しながら、先生は箱のようなものをいじくってるんです。なんですか、それって聞くとブラック・ジョーク・ボックスていう名前だけは教えてくれましたがね、それ以上はけんもほろろで……調べたんですけどそんなパズル、どこもだしてないんです。あの先生が旧作パズルに手こずるはずがないし……」
「あの、つまり松崎さん、あなたは本田君が休筆宣言をしたわけはそのパズルが解けないためだろうと?」
 実を言うと、僕は本田君はとうの昔にブラック・ジョーク・ボックスを解いただろうと思っていたのだ。第一の箱があんなに早く開けられたのは少々ショックだったし、きっと執筆の仕事が多忙なので解けた連絡をくれないのだろうと思っていた。
「先生はね、」松崎は続けた。
「前にも同じような事があったんですよ。ファンの人がね、『先生に解いて頂きたい!』とか言って、解答無しの自作パズルを送りつけてきたんですよ。先生もあんな人ですから『よし、受けてたってやる!』なんてすっかりのせられちゃって、あの時は幸い三日程で先生がそのパズルを解いてみせたんで、仕事のほうには大した影響なしに済んだんですけどね」
 カレーを食べ終えた松崎は満足した顔でコップの水を飲み干した。
「谷川さん、あなたの事は先生からお聞きしました。高校時代からのお友達だそうで。ですから先生の気質はご存知でしょう、あの方はパズルが解けるまで絶対に執筆にとりかかりません! 百パーセント確実です。もしブラック・ジョーク・ボックスについて何かご存知なら、僕を助けると思って情報を提供していただきたいんですがねぇ……」
 僕はものを食べるのが何事につけても遅いたちで、その時も残り二つになったカツをどっちを最後に食べたほうが食後感がよいか考えていた。だがここにきて急に僕への相談内容が明らかにされ、顔を挙げて松崎を見た。
 どこと言って特徴のない、ありがちな人物だとしか思っていなかったが、何だか急に、腹黒いところを持つ狐のように見えてきた。もしかしたらブラック・ジョーク・ボックスを作ったのが僕である事を感づいていて、それを承知の上で知らぬふりしてぬけぬけとこうして僕に尋ねているのかもしれない。お前のせいで先生の筆は止まってるんだ、どうしてくれると、実はあの愛想のいい顔の裏で思っているのではないか。何だか恐くなってきた。
 結局、僕もそのパズルについてはよく知らない、本田君から聴いた事があるだけでめっぽう難しいものだそうだ、などと言ってなんとかごまかした。別れ際、松崎に、本田君の家を一度訪ねてみるよう勧められた。お前のしでかした事を見てこいと遠回しに言われたようで、やはり松崎は狐だと思った。

 そして、あの金曜日の午後がやってきた。
 妻に帰宅が遅れる電話をいれ、同僚の誘いを軒並み断って僕は本田君の家へと向かった。駅を降りてもうほとんど通い慣れた感のある細道までやってきた頃には辺りがすっかり暗くなっていた。風は厳しく身を切るように冷たいが、民家からは明かりが洩れ、なにを料理しているのか懐かしげな夕げのほのかな香りが漂ってくる。
 本田君の家は、彼がいると思われるあの書斎以外全て真っ暗だった。
 玄関でさえ闇のうちである。不精な奴だと思いながらそっと引き戸に手を掛けガラガラと引いた。
「本田君」
 訪問することは留守番電話にあらかじめ伝えてあった。
「僕だ、いるのかい?」
 冷え冷えとした長く薄暗い廊下の奥からうめくような声が響いてきた。返事をしたつもりらしい。僕は靴を脱ぐと書斎に向かった。
 明かりの洩れる書斎の障子の前に立ち、すぅ、と開けると相変わらず種々雑多のパズルの群でごみごみとした部屋の様子が視界に飛び込んできた。天井から釣り下げられた蛍光灯の明かりは寒々としていて畳の面が凍り付いたように蒼く光って見える。その上に置かれた小さな漆黒の正六面体、ブラック・ジョーク・ボックスの最難関、「第三の箱」だ。
 何も映っていないパソコンに背を向け、ぐっと猫背になりあぐらをかいてじっとそれまで第三の箱を見つめていたらしい本田君が、顔を挙げた。
「やあ」
 血走った目、隈の入った下瞼。一体どれだけの時間眠っていないのか、どれだけの時間あの卑屈な姿勢で集中し続けたのか。
「ほ、本田君……」
 眼中に入らぬかのように彼はまた視線をすぅっと箱の方に戻すと、そのままピクリとも動かなくなった。彼の頭の中にはもう僕の存在など微塵もない。彼の精神はわずか人間の握り拳大ほどしかないただの木造の箱に吸収され、それが彼にとっての全宇宙となっている。時間はとまり綿密な思考のみが見えない伽藍を築いていく。パズルの虜、パズルの奴隷、パズル崇拝者……なんとでも呼ぶがいい、だが彼が今俗世を越えた知の法悦境にいることだけは間違いない。
 僕は彼の前に座り込んだ。彼にかけられる言葉などなかった。思い付きさえもしなかった。だがこのままにしておいて良いわけがなかった。ブラック・ジョーク・ボックス第三の箱は、いくら論理的推理を積み重ねたって解けないのだ。
 このパズルは真っ当なパズルではない、まさに一種の「ブラック・ジョーク」なのだ。
 僕も、彼と同じように畳の上の第三の箱をみつめてみた。すぐ傍らに、第二の箱が転がっているのに気付いた。鍵穴に鍵が差し込まれ、あっちこっちスライドしたところが出っ張ったまま放置されている。僕は第三の箱に視線を戻した。第一、第二の箱に比べて第三の箱は実にシンプルなデザインだ。茶筒みたいに蓋と思われる部分と箱の部分との間にぐるりときざみが入っているだけだ。あのきざみのところから蓋と箱の部分が分かれるようになっているのだろうということは誰でも気付く。しかし、第二の箱から第三の箱を取り出したところでいくら蓋を引っ張っても、それはとれはしない。本田君はそれを確認したところで、この高僧の修行にも似た集中状態に入ったのだろう。
 静かに夜は更けていく。近所の家がテレビを観ているのか、聴き覚えのある歌謡曲がかすかに響いてくる。本田君は黙して何も語らない。僕はなんだか段々いたたまれなくなってきた。
「本田君、君こうやって箱に手も触れないで考え始めてどれくらい経つんだい?」
 答は瞬時に返ってきた。いまの彼の頭の中はコンピュータのようなもので、入力してやればすぐ出力が弾き出されるようになっているのだろう。
「五日」
 充分だ。僕は少々ためらったが、とにかく言ってみることにした。こんな膠着状態には耐えられなかった。
「本田君、こんな時計知ってるかな?」
 僕は袖をまくって左腕にした腕時計を見せた。彼は顔を挙げなかったから見ていなかっただろうが。
「これはね、面白い時計なんだ。普通の時計は電池が切れるまで動き続けるだろう? でもこの時計はそこら辺に長い間放っておくと、自然に止まってしまうんだ。ところが腕にはめているとまた自然に動き出すんだよ、なぜだと思う?」
 初めは何も変化はなかった。聞いていないのかなと、僕は思った。
 不意に、本田君は、顔を挙げた。
 蒼白だった。やがてそれは真っ青になっていった。顔面がぴくぴく震えだし、青筋が浮き出し、やがて一気に真っ赤になっていった。
「本田君?」
 彼は気味が悪いほどゆったりとした動作で腕を前に伸ばした。伸ばした右の手のひらがブラック・ジョーク・ボックス第三の箱の蓋と思われる部分を上からぐっとつかんだ。あっと僕は思わず叫びそうになった。蓋をつかんだまま上に蓋が持ち上げられると、難なく、そのまま、箱は開いた。
「あ……ああ……おめでとう、本田君! や、やったじゃないか、君ならきっと分かると思ってたんだよ! やあ、おめでとう!おめで……?」
 様子がおかしかった。彼は喜ぶどころか、瞼が裂けそうなほど目を一杯に見開いて、蓋をつかんだ右手をわななかせながら僕を見ていた。
 彼はすっくと立ち上がった。びゅん、と音を立てて右手を振ると、僕の耳たぶを掠めて第三の箱の蓋が飛んでいった。障子を突き破り、縁側のガラスを割ったらしいガチャンという音がした。
「え、あ、あの、本田君、どうしたん……」
「たにがわあ!」
 キーンと鼓膜を突き破るような声で、本田君は吠えた。僕はようやく、自分が何をしてしまったのかを思い知った。僕は立ち上がろうとして思わずよろけ腰になり、後ろにひっくり返って障子を突き破った。
「貴様、貴様、貴様! よくもヒントを教えたなあ!」
「す、すまん、悪気はなかったんだ、あんまり答が分からなくて辛そうだったから、つい……」
「何が悪気だ!おまえなんかにヒントなんぞもらわなくたって後数分で解けてたんだぞぉ! 許さん、覚悟しろ!」
 起きあがろうとしていた僕に座布団が飛んで来た。本田君はなにかわけのわからないことを大声で次から次へとまくしたてると、僕に投げつけるためか棚のパズルをごっそり両脇に抱え込んだ。僕が廊下へと逃げ出すと後ろから待てぇという彼の恐ろしい声が響いてきた。彼が正気を失っているのは、もう明らかだった。

 その後、僕が本田君の追撃からどの様にして逃げ切ったかということはここでは語らないことにしておこう。
 ブラック・ジョーク・ボックス、余りにもブラック過ぎたようだ。このトリックを思い付いたのは、その時腕にしていた腕時計からだった。僕の腕時計は、自動巻きの時計なのだ。
 自動巻きの時計は中に振り子状の部品があり、腕に填めて生活をしていて腕を動かすことによってその振り子状の部品が回転する。その回転によって自然にぜんまいが巻かれて時計が動くわけだ。
 第三の箱の中も似たような造りになっている。振り子状の部品が回転して発電し、発生した電力が蓄電池に蓄えられる。第三の箱は内側からピンが蓋と箱を貫き、ロックするようになっているが、普段はスプリングの力でピンは外れている。しかし蓄電池に電気が溜まっていれば、ピンのスプリングに抵抗する力が生まれて、箱はロックされるわけだ。
 ここまで説明すればブラック・ジョーク・ボックスがなぜ入れ子構造になっているのかわかるだろう。そう、第三の箱を回転させるためだ。第一の箱はあちらこちらをスライドさせることにより蓋のロックが外れ、第二の箱は鍵穴と鍵を見つけることによって開く。第一の箱より第二の箱の方が難しいのは、段階的に中の箱ほど難しくなっていくという印象を与えて、本来の第三の箱を回転させるという目的に気付かせないためだ。
 「ブラック・ジョーク」の意味も明解だ。仕掛け箱のパズルはいかにして閉ざされた箱を開くか、という問題だ。だが、ブラック・ジョーク・ボックス第三の箱を閉ざしたのは、パズルに挑んだその人自身なのだ。しかも第一の箱、第二の箱に手こずれば手こずるほど電力が貯まり、第三の箱は開き難くなる。
 しかも第三の箱の開け方は実に馬鹿馬鹿しい。簡単なことである、第三の箱を開けるには、何もせずに放っておきさえすればいいのだ。そうすればやがて蓄電池が切れる。頃合を見計らって蓋を持ち上げてやりさえすれば難なく開けることができる。但し、それがいつかということは外からはわからない。なぜなら「ブラック・ボックス」なのだから。
 勿論、こんなものはとてもまともなパズルとは言えない。電気仕掛けで、何もしないのが解法だなんて、パズルというよりイタズラおもちゃに近い。しかし、だからこそ僕は本田君にこれを捧げたのだった。本当のパズラーだからこそ、このしゃれっ気がわかってもらえると思ったのだ。不運だったのは、彼があまりにも正統派の、熟考派のパズラーだったことだ。ある程度考えたところで、わかんないな、もう一度調べてみるか、とか言って蓋を手にとろうとする。すると蓋がするりと外れる……そういう風になるだろうと思っていたのだ。これが僕みたいな試行錯誤派ならいつまで経っても開きはしない。本田君のような、パズルに触れずに頭の中で解こうとするタイプだからこそ有り得るのだ。
 だが、彼はあまりにもプライドが高すぎた。五日も手を触れずにいれば当の昔に電池は切れていたのだ。だが僕がヒントを与えなければ彼は、もしかしたら永久に第三の箱に手を触れなかったかも知れない。それとも天才的な彼ならその前に自動巻きのトリックを見破っただろうか。そんな気もする。

 本田君はやはり一時的な錯乱状態に陥った。その後しかるべき施設に入れられたが、二週間経った現在ではほとんど病状も回復して以前のように執筆活動や新作パズル開発に打ち込んでいるそうだ。ただ松崎が伝えるには、もうしばらく僕は会いに行かない方がいいだろうということだった。そのうち謝りにいこうと思っている。
 この出来事以来、さすがに僕もパズルにはこりごりしたと思っている。しかし、高校時代の本田君との思い出や、彼から借りてきた仕掛け箱に取り組み、夢中になった時間、ブラック・ジョーク・ボックスを作っていたときの仕掛ける側の喜びを噛みしめていたことを思い出すと、ときどきパズルが無性に恋しくなる。
 そのうち本田君と酒でも交わしながら、ひとつの思い出としてブラック・ジョーク・ボックスの話ができるようになる日がこないだろうかと思う今日この頃なのだ。

《参考資料》
『全天候型 史上最強のパズルランド』(芦ヶ原伸行/ベネッセコーポレーション/一九九五年十二月)