自傷行為

 その頃の私たちに出来ることは言葉から離れることでした。書籍はもちろんテレビからも街の看板からも、洗剤の取扱説明書からもカレンダーの数字さえも。私たちはそうやって言葉から記号から自分たちを遠ざける以外解決しようが無かったのです。
 けれど彼の病気は悪くなるばかりでした。空を見れば空という字が浮かび、水を見れば水という字が流れます。次第に家の中でも怯え暮らすようになりました。床を歩けば床という字を踏みしめ、壁に触れれば壁という字になります。なにを食べようとしてもそれはその料理の名前になり、味は甘い辛い酸っぱい苦いと文字になって喉に流れ込みます。ときとして吸い込む空気も文字になり、息苦しくなればその感情もまた文字になるのです。
 やがて恐れていた日がやってきました。彼は私をじっとみつめています。彼の目に映るのは私という文字なのです。私はナイフで自分の腕を傷つけました。流れる血を彼の頬にすりつけ抱き合っても、それは血液という文字であり体温という文字でしかありません。私は泣きくれてどうしようもなく彼をバスルームに閉じ込めました。翌朝、恐る恐るバスルームの扉を開けた私が見たものは、タイルの上に立ちつくし鏡をみつめている彼の姿でした。ちぎれそうなほど瞼を広げて、彼は鏡の中の自分という記号をみつめていたのです。