水難の夢

 薄暮だった。連絡船の上から澪を眺めていた。年に一度、母娘二人きりの小旅行。楽しみにしていた一日も、終わりを迎えつつあった。
 日盛りの下を歩き続けた四肢が燃え殻のように熱い。来年には中学にあがる娘と手をつなぐこともなく、背中を追いながら歩いた。長く伸びた手足に歳月の過ぎる早さを思い、安堵と寂しさの入り混じった気持ちがした。
 泡波の生滅に時を忘れ、意識が朦朧としていた。残照に航跡が鮮やかな朱に染まっている。疲れがでたのだろう。鉄柵をつかむ手の甲に波飛沫がかかるたび、どこか遠くから呼び起こされるような感じがした。
 自分がなにをしてきたのか、自分はなぜいまここにいるのか、夕闇の中で見失いそうな気がした。瞼を閉じ、深く息を吸う。潮の香りが胸に広がり、波の律動を足下に感じる。長く息を吐きながら目を見開く。
 離れた場所に、娘が立っていた。両腕を鉄柵にかけ、まじまじと遠くをみつめている。なにかに魅入られたように、瞳を凝らしている。
 既視感があった。今すぐにでも駆け寄り、娘の肩を押さえたくなった。
(そうだ、これは……)
 娘の肩を押さえつけ、動きを封じたくなった。
(……夢と同じだ)
 記憶の海に、なにかが揺らめきながら浮かび上がってくる。娘が、鉄柵を乗り越え、泡波に身を投じる――そんな光景。
 小さく、苦笑する。そうだ、今朝、確かにそんな悪夢をみた。どうして忘れていたのだろう。どうして今の今まで思い出せなかったのだろう。自分はよっぽど酷暑と疲労に参っているらしい。けっきょく自分はまだ、娘の成長を実感できていないということか。幼児ではあるまいし、どうしてあの娘がそんなことをするだろう。
 微笑みを浮かべながら、娘の背中へ歩み寄ろうとした。今日一日を振り返ろう、楽しかった旅のことを語ろう、そんなことを思った。
 右手に、違和感があった。
 なにか握っている。なにか小さなものを。
 顔の前に、右手を近付けて開いてみる。安物のライターが、そこにあった。プラスチックの中で液体が揺れる。
 意識の空白があった。ざわめきが聞こえた。顔を上げると、先程まで自分達と同じように波を眺めていたはずの人々が、陸のほうを指さし声をあげている。
「……おかあさん」
 震える声があった。鉄柵の前に立つ娘が、怯えた目で私を見ていた。大きな黒い瞳に、赤い光がチラチラと揺れている。
 赤い光? 私はようやく、そちらを見た。娘が恐怖しながらみつめていたものを、周囲の人々がざわめきながらみつめていたものを。
 炎があった。山陰の集落を、長く、長く、竜のような炎が覆っていた。血のように赤黒い夕焼け空に、巨大な黒煙が幾筋も吸い込まれていく。黒と赤の影絵劇。逃げまどう人々の小さな姿が、美しい炎に照らされていた。
 なにをしてきたのだろう。私は今日、なにをしてきたのだろう。ライターを強く握りしめる。誰彼の闇に視覚が鈍る。代わりに鋭くなった肌が、大気の動きを感じた。火炎が、風を呼んでいる。
「大丈夫」
 歩き出す。娘のほうへ歩き出す。深海から、記憶の断片が次々と浮かび上がる。いつの間にか消えていた背中。道ばたで拾ったライターをおもちゃにしていた娘。思いがけず大きくなった炎を前に、為すすべもなく立ち尽くして私を見上げていた、あの幼い表情。
「……大丈夫だから」
 右手を振り上げる。鉄柵を越えて放物線を描きながら、ライターが赤黒い波に消えた。娘の背後に立ち、その小さな震える肩を抱く。炎が招いた海風に娘の黒髪が乱れ、私の腕に幾重にも絡み付いた。

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