ビビブブゥン

 遊歩道の緑がキラキラしてて、木陰にいるとシンと涼しくて、そっか、これが五月晴れっていうんだ、気持ちが良くてウキウキして、息を深く吸い込むと胸の奥がスーッとなって元気が湧いてどんどん歩いてしまう。
 まぶしい。青空に浮かぶ雲がくっきりと白くて立体的で、いくつも組み合わさって重なり合ってパノラマみたいに広がりがあって、心が遠くに吸い込まれてく。きっと今日は、お日様が沈まない、もう夕暮れなんて来ない。ずっとずっと永遠にこんな昼下がりが続くんだ。そんなメルヘンなこと考えたりする。
 だから、眠くなった。すっごく遠回りしてアパートに帰って、汗かいてたからシャワー浴びてラフな服に着替えて、ノートパソコン膝にのせてメールチェックしてネット眺めてたら、なんだか凄く眠くなってきた。頭がポワーッてなって、畳の上に仰向けに寝転んで、ぼんやり天井眺めた。
 大学に受かって、この春に越してきたばかり。一人暮らしのこの部屋、最初はとまどったけど、だんだん慣れてきた。落ち着ける場所になった。ここは自分の巣なんだって、やっと実感湧いてきた。こわいこともあったけど、大丈夫、きっとうまくやってける。
 目を閉じる。とろんって、なった。窓から射し込む陽射しが膝の下にあたってるのがわかる。日陰のとこは肌寒いのに、足下だけ暖かい。素敵。ホントに素敵な日。
 ――話し声で、目が覚めた。
 タケコさんだ。
 ああ、すごく幸せそうに笑ってる。表の通りから聞こえてくる。
 こわい。私はあの人がこわい。
 タケコさんが誰なのか、私は知らない。ただの他人。すれ違うだけの人。大きな声で、楽しそうに携帯電話で誰かとおしゃべりしながらアパートの前を通り過ぎる、ただそれだけの人。それは夜、たいてい深夜のことで、二階にいる私の部屋まで話し声が聞こえてくる。聞くつもりはないけど、布団の中にいる私はうつらうつらしていて会話の内容を途切れ途切れに聞いてしまう。あの人の名前もおしゃべりから漏れ聞こえただけで、面と向かって会ったり話したことはない。
 でも、見てしまった。あの晩、私は少し疲れてたと思う。いつもなら気にならないタケコさんのおしゃべりが、どうしても気になった。いつもいつもどうして夜中にそんな大きな声で話してるの、ここは住宅街なんです迷惑だと思いませんか。そういうことを一度きちんと言ってあげないとダメだと思った。いつもの私は凄く寝付きがいいし物音も気にならない。何度か興味半分で窓を細く開けてタケコさんがどんな人なのか覗いたことはあった。スーツ姿で、黒い髪が肩胛骨の下くらいまであって、おしとやかそうな凄くお嬢さんっぽい人だったからビックリした。色白で、おしゃべりしてる顔が凄く嬉しそうで幸せそうで、だから声は少し大きいけど許してあげてもいいかななんて思ってた。
 それなのにあの夜は変だった。私はなかなか寝付けなくて、やっと頭がボーッとしてきたかなと思ってたらタケコさんの声に起こされた。凄くカッとなって起き上がって明かりを点けた。カーテンを思いっきり引いて窓を開けて、大声だしてやれって深く息を吸った。
 そして、私は見た。
 それまで、外灯とか、近所の家の門灯でしか、タケコさんを見たことなかった。だから、気付かなかった。あると思ってたものが、無いなんて、思いもしなかった。
 あの顔。立ち止まって、大きく瞼を広げて、こっちを見上げた顔。暗闇に浮かび上がった白い顔。
 タケコさんは、左手を顔の横に添えていた。
 なにも握っていない左手を。
 空っぽの手。指先を、まるで透明な携帯電話を握ってるみたいに曲げてた。
 私は、感じた。胸の中で膨らんでた言葉が、どっかに消えてく。シューッて、しぼんでく。窓を閉めた。カーテンを引いた。うずくまって、肩がガタガタ震えてくるのを必死にこらえた。
 あの夜から、私はタケコさんを見たことがない。相変わらず、真夜中になるとタケコさんは「携帯電話で」幸せそうにおしゃべりしながらアパートの前を通り過ぎる。でも、私は絶対に表を覗いたりなんかしない。きっとアレは見間違いだったんだ、本当はちゃんと持ってたんだって思いたいけどこわくて外を覗けない。
 ――表からの話し声が近付いてくる。畳の上に寝転んで目を閉じたまま、私はどうしてこんな時間にタケコさんが来るのか考えてた。いつも夜にしか来なかったのに、どうして今日はこんな時間なんだろう。ガラッと窓の開く音がした。隣の部屋からだ。思わずハッとなった。隣の青山さんとは顔なじみだ。ショートカットの青山さんは私と大学は同じだけど学部が違って理系でちょっとかっこいいボーイッシュな感じの人で、ときどき立ち話したり実家から仕送りがあるとお裾分けしあったりしてる。私と同じでやっぱりタケコさんのおしゃべりが気になるみたいで、この間もプンプン怒りながら青山さんは「無神経な人、きらい。チイちゃんもイヤでしょ? 一緒にコラーッて叱ろうよ」なんて話してた。
 そのことを思い出して、まさかと思ってたら青山さんの大声がした。凄い勢いで怒りの弾丸がビュンビュン飛んでく。びっくりした。いつもクールで大人びた感じなのに人が違ったみたいにこわい声してる。汚い言葉をいくつも使って狂ったみたいに叫んで空気がビリビリ震えて、叱られてるの私じゃないのに泣きたくなってきた。あれは本当に青山さんなの? 誰か声のそっくり同じ人がいるの?
 急に、静かになった。
 なにも聞こえなくなった。
 青山さんの声もタケコさんの声も聞こえない。
 小さく、足音が聞こえた。タケコさんのハイヒールの音。なにも言わずに行っちゃうの? あれ、でも、なんだか聞こえ方が違う。方向が違う。そっちは、路地のほう。このアパートの階段がある路地のほう。
 カン、カン、とリズミカルな音が聞こえてきた。外付けの階段を上る音。少し早足。怒ってるみたいな早足。次は通路。カッ、カッ。カッ、カッ。ハイヒールが音を立てて私の部屋の前を通り過ぎる。歩調を緩めず、リズミカルに、なにをしようとしてるのかわかってるみたいに。そして、ストップ。青山さんの部屋の前で停止。
 こわい気持ちが、ざわざわ、お腹の底から胸元に這い上がってくる。
 ピンポーン。玄関チャイムの音。ダン、ダン、青山さんが部屋を横切る足音。やめて、やめてやめて! ドアを開けちゃダメ、タケコさんと会っちゃダメ!
 そのときになって気付いた。
 瞼が開かない。
 頭を持ち上げようとした。でも首が動かない。あれ、と思って指先に力を込めてみる。膝を曲げようとしてみる。でもダメ、麻痺したみたいに感覚がない。自分の身体じゃないみたい。金縛りだ。
 ウソ、どうして。焦る私の耳に、ドアの開く音が飛び込んでくる。爆発したみたいに、罵り合う声がした。凄い勢いでキチガイとか死ねとかイヤな言葉が響いてくる。早く起きて二人をとめないと。でも瞼が開かない。焦れば焦るほど身体の内側と外側が離れてく。
 ドン、と強い音がした。壁になにかぶつかった音。続けて部屋の奥へ踏み込む足音、ダダン、と強い振動。甲高い悲鳴がした。ガシャンとなにか割れた。ケダモノみたいな呻き声、激しく暴れる音。
 声が止んだ。
 物音もしなくなった。
 凄く静かな、静かな時間。起き上がることをあきらめ、耳をそばだてる。じっと集中する。青山さん、どうしたの? どうなったの?
 衣擦れが、聞こえた気がした。人の気配。動く人の気配。足音。凄く小さな、ゆっくりした足音。これは青山さん? それとも、タケコさんのハイヒール? 通路を、誰かが近付いてくる。ゆっくり、ゆっくり、足音を忍ばせて近付いてくる。
 額を汗が流れてく。私は喉の奥に力を込める。助けて! 動かない唇。こんんなに心臓は動いてるのに! こんなに早く鼓動してるのに!
 ピン、ポーン。
 玄関チャイムの音に、私は跳ね起きた。
 金縛りが解けた。
 六畳間、上半身を起こした私、夕闇に塗りつぶされた暗い部屋。
 夢? 夢だったの?
 フラフラと頭を揺らしながら、畳に手をついて起き上がる。薄闇に包まれて輪郭が曖昧。ああ、そうだよ、タケコさんが昼に来るわけないじゃない。私、寝ちゃったんだ。眠ってる間に日が暮れて、タケコさんが来て……それで?
 ピン、ポーン。二回目のチャイム。私はキッチンを通り過ぎる。クリーム色の玄関扉。そうだ、青山さんが窓を開けて、タケコさんを怒鳴って、やだなあ、変に刺激しちゃダメだよ。逆恨みされたりしたらイヤじゃない。だから、あんなことに……。
 あんなことって?
 立ち止まる。ドアノブに差し伸ばした腕を、とめる。あんなことって? タケコさんが来て、タケコさんが階段を、タケコさんが青山さんの部屋で。
 ピンポーン、ピンポーン、ピンポピンポピンピピピピピ……連打されるチャイム。一歩、後ずさる。頭の中でなにか回転してる。頭の中で回転するなにかが私を後ろに引きずる。ダメだ、ダメだ、早く逃げよう!
 ダン、と叩く音。玄関扉を向こう側から叩く音。ダン、ダン、ダン。何度も拳を打ち付ける音。
「チイちゃん!」
 青山さんの声。
「寝てるの? チイちゃん! 早く、大変なの! タケコさんとケンカになったの! あの人、火をつけたの! 私の部屋に火をつけたのよ! 早く逃げないと! チイちゃん! チイちゃん!」
 胸から重い空気が逃げてくのがわかった。青山さんだ。青山さんだ。よかった。ホントによかった。泣き出しそうになりながら私は腕を伸ばす。ドアノブのつまみをまわして、カチャンと音を立てながら鍵を外す。ドアを開ける。
 微笑む顔があった。薄暗がりに、タケコさんが立っていた。白い頬が血飛沫で濡れてる。
「チイちゃん! チイちゃん!」
 左手。顔の横にかざした左手。空っぽの左手が、ビビブブゥンと振動して青山さんの声を発した。

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