陽が落ちて、急に風が冷たくなった。青黒い空を支えるように、品川インターシティの特徴的な楕円柱のビルがそびえている。品川駅東口からこのビルの二階へは、スカイウェイと呼ばれる歩行者専用通路で直接つながっている。帰宅ラッシュの人混みの中、木村は黒深の姿を探して歩いていた。
 けっきょく、昼間は黒深から詳しい説明を聞く余裕がなかった。なにがあったのか一方的に説明を求められ、話し終えると黒深は静かに考え込んでいた。やがて顔をあげると、トイレに行っていた、なにも知らないで済ませて下さいと言われた。
 正直、呑まれていた。抵抗する気力も考える意欲も無くなっていた。間を空けずに警察が来たのもまずかった。事情聴取、待機、再度事情聴取、待機。解放されたときには陽が暮れていた。けっきょく、偽証してしまっていた。
 落ち着いて考えると、解放されたのは妙なことだった。カードキーの記録から、四十二階に入ったのは小泉と自分であることがすぐにわかったはずだ。どうして逮捕されなかったのか。きちんとした物的証拠を探しているのか、逮捕状の申請に時間がかかるものなのか。頭を悩ませるうちに黒深からエレベーターで渡されたカードキーのことを思い出し、自分が想像している以上に事態は複雑なようだと、薄々わかってきた。
 駅へと向かう人並みを抜けると、急に辺りが寂しい雰囲気になった。向かい側の品川グランドコモンズに挟まれた緑地帯を、手すりによりかかった黒深が見下ろしていた。
「きれいですよね」
 ちらりと振り返り、独り言のように黒深がつぶやく。隣に並び、同じように見下ろしてみる。
 品川セントラルガーデン。幅約四十五メートル、全長約四百メートルに渡って人工性を強く感じさせる庭園が広がっている。芝生の部分もあるが、ほぼ全面をタイルで覆われ、土が見えない。夜間でも照明が灯り、幾何学的に池や桂並木が並んでいるのがわかる。
「なにから話しましょうか?」
 遠い目で、黒深は人々の流れをみつめている。手すりに重心を預けながら、木村は口を開いた。
「警察にどんな証言をしたか、八千草さんに訊きました」
 整備された自然は美しい。手つかずの自然より、遥かに人に優しい。そんなことを、木村は一瞬だけ思った。
「だいたい、動きは把握したと思ってます。黒深さんは非常階段に閉め出されていた。八千草さんと僕が四十一階にいた。小泉さんは四十一階に顔を見せた後、いつの間にか四十二階に移動し、そして誰かに殺された。機会のある者は二人、八千草さんか僕。そして、本当の犯人は僕。なのに、まだ逮捕されていない。どうして警察は僕を逮捕しないのか」
 人類に存在価値があったとすれば、それはダイアモンドの原石を研磨したことかもしれない。
「警察は当然、カードキーの記録を手に入れたはずです。それを見れば、四十二階にいたのが僕と小泉さんだけだとすぐわかるはず、そう思ってました。でも、記録が本当にそうなっていたなら、僕はもう逮捕されるなり、少なくとも任意同行とか相応の圧力を受けてるはずだ。なら、記録がそうじゃなかった、と考えるしかない。なにが欲しかったのか知らないけど、小泉さんは情報を盗もうとしていた。だったら、後々のことを考えて入室記録を残さないようにする。つまり、他人のカードキーを気付かれないように盗んで使うことくらいはする。きっとそのせいで、入室記録は単純に小泉さんと僕の名前にはなってないに違いない。じゃあ、誰の名前になっているのか? 小泉さんは誰のカードキーを盗んだのか?」
 黒深は動かない。聞いていないのかと思うほど、反応がない。柔和な横顔で、楽しそうに人混みを眺めている。
「初めは、昼寝してる間に僕のカードキーを盗んだのかと思いました。それなら黒深さんが小泉さんのカードキーをエレベーターで僕に渡したのも納得がいく。小泉さんが盗んだカードキーを、取り返したってことだから。でも、そうじゃなかった。八千草さんの話が確かなら、小泉さんが僕のカードキーを盗む隙はなかった。黒深さん、あなたがカードキーを置き忘れて非常階段に締め出されてたっていう話を聞いて、じゃあ小泉さんが盗んだのはあなたのカードキーかもしれない、そう思ったりもした。でも、それもおかしい。その場合、入室記録に残るのは黒深さんと僕の名前だ。黒深さんはアリバイが確保されてるんだから、そのカードを使ったのは自動的に小泉さんってことになる。そして残った僕が犯人だ。やっぱり僕が逮捕されてなきゃおかしい」
 胸の奥が熱くなった。少しずつ、怒りが込み上げてくる。
「手詰まりですよ、答えがない。でも、よくよく考えるうちに気付いたんです。前提条件が間違ってる。確かに僕のカードキーを小泉さんが盗む機会はなかった。でも、盗む機会があったのは、八千草さんだけじゃない」
 今頃になって、やっと自分を客観視できた。話すことで、自分の受けた仕打ちを認識できた。怒りが言葉を加速させていく。
俺のカードキーを盗んだのはあんただ、黒深さん。昼寝している俺からカードキーを盗めたのは八千草だけじゃない、あんたもだ。昼メシの後、俺が昼寝を始めてから八千草が出社するまで約十分あった。そのとき、あんたは俺のカードキーとあんたのカードキーをすり替えたんだ
 カードキーのすり替えは、考えてみれば必然だった。単に盗むだけでは、四十二階に忍び込んでいる間にもし木村が目を覚ましてトイレにでも行ったら、オフィスに戻ろうとしたときに入ることができず、カードが盗まれていることを気付かれてしまう。気付かれないよう、万一の保険にダミーのカードが必要だった。
 カードキーには右下隅に名前が書かれているが、かなり文字が小さい。そもそも社員証と重ねているので、カードキーの名前など見えない。しかもパネルに近付けるだけで解錠されるため、カードをケースからとりだす必要がない。カードキーを入れ替えても、気付かれる心配はほとんどゼロに近い。セキュリティを高めるための顔写真入り社員証が、逆にカードキーのすり替えを容易にしてしまっている。
 大木情報通信社から派遣された二人、小泉と黒深は共謀の上でビットスタート社のなんらかの情報を狙っていた。黒深が他プロジェクトの者や警備員とまで親しくしていたことはその布石だったのだろう。木村が昼寝を習慣としていること、寝入りが早いことを利用すれば、カードキーを盗めるとわかった。情報漏洩が発覚し、社会的なニュースとなれば、さかのぼってカードキーの記録もチェックされる。人目がなかった休日は尚更だ。そのときのための保険として、カードキーのすり替えが必要だった。
「あんたは俺のカードで四十二階に忍び込むつもりだった。俺に情報漏洩の罪を被せるつもりだった。計画外だったのは、八千草の行動だ。会話の成り行き上、あんたは八千草と一緒に非常階段にでた。ところが八千草が先にオフィス内に戻ってしまった。あんたの手元には俺のカードキーがある、普通に考えればそれを使って入ってくればいいように思う。だが、それはダメだ。四十二階に忍び込んだはずの俺が、その直前にどうして非常階段のドアに記録を残しているのか? あの日、非常階段にでたのは八千草と黒深じゃないか、そう勘付けばカードキーのすり替えがバレちまう。じゃあ、いっそこのまま四十二階に忍び込むか? 初めからそうするつもりだったんだから、それでいいじゃないか? いや、ダメだ。八千草にしてみれば、あんたはそのまま普通に戻ってくればいいはずだ。わざわざ四十二階からオフィスに入るなんて行動が不自然過ぎる。残った行動はひとつしかなかった。カードキーを置き忘れたふりして、一階まで下りる。だが、その選択肢も問題があった。階段を下りる分だけ、時間が無駄になる。四十二階で作業する時間が減っちまう。あんたのジレンマは普通にカードキーを置き忘れた状態より遙かに複雑なものだった。それでも、あんたは最善の選択肢をみつけた」
 黒深が、木村の顔を振り返る。軽く上目遣いで、興味深そうに次の言葉を待っている。
「あんたは小泉の死体からハンカチを回収してた。どこか見覚えのある模様だと思ってたんだ。やっと思い出したよ、あれはあんたのハンカチだった。午前中、冷房がまだ効いていないとき、額に押し当ててただろ? なんか違和感があると思ったが、それは小泉があんたのハンカチを持ってたからだ。だが、考えるとそれはおかしい。小泉が出社したとき、あんたは非常階段を下りていたはずだ。小泉と接触する機会があんたにはないはずだった。いつハンカチを渡したのか? そもそも、なぜハンカチを渡す必要があったのか?」
 小泉を殺害した後、アラームに驚き、慌てて非常階段へ逃げようとしたとき。階段が折り返しになる部分の手すりにしがみつき、上り階段と下り階段の隙間を覗き込んだ。
 四十一階分の垂直な空間があった。握り拳の幅しかない空間。しかし、カードキーを落とすには充分な幅の空間。
「ハンカチを渡すことが目的じゃなかった。カードキーが落下の衝撃で割れるのを防ぐためだったんだ。携帯で小泉に連絡し、一階の非常階段に来させた。ハンカチでカードキーをくるんで、手すりの隙間から落とした。うまく一階まで落ちるとは限らないが、要は時間を短縮できさえすればいい。そうやって俺のカードキーを小泉に渡して、あんたは四十二階での代理作業を頼んだんだ」
 あるいは、木村のカードキーを小泉に渡すことは初めから計画していたとおりだったのかもしれない。情報収集とカードキーの盗みを黒深が担当し、四十二階への潜入を小泉が担当するという分担わけがあったと考えるほうが自然だ。それに、黒深は必要以上に四十二階に出入りしていたが、小泉はそうではない。情報漏洩が明らかになったとき、小泉のほうが疑われる可能性が低い。
 有能な人材の小泉、人当たりはいいが行動に問題がある黒深。そのような性格アピール自体が、既に犯行の一部だった。
「あんた達はとことん運が悪かった。予想外のアクシデントがもうひとつ起きた。昼寝から起きた俺が、四十二階に顔をだしたことだ」
 説明はひじょうに複雑で難しいんです。エレベーターで黒深が話したことを思い出す。確かに、複雑だ。
「俺は自分のカードキーだと思ってドアを開けた。けど、本当はそうじゃなかった。黒深さん、あんたのカードキーとすり替えられてたんだ。俺は自分でも気付かない間にあんたのカードでドアを開けた。俺のカードは小泉が持っていた。結果的にどうなったか? 警察は恐らく非常階段のトリックに気付いてない。俺のカードキーが小泉の手に渡った可能性を考えていない。多分、それが原因で運良く俺にアリバイが成立してるんだろう。結果として、俺は逮捕されず、ここにこうしている」
 黒深が小泉の死体からカードキーをとりあげ、木村のカードキーと交換した理由もこれで納得がいく。まず木村のカードキーは小泉が持っていた。だから木村にそれを返した。そして黒深のカードキーは四十一階に置き忘れたのではなく、木村が持っていた。だから、それを取り返した。巡り巡ってカードキーはそれぞれの本人の元へ戻った。
「以上だ」
 口中に渇きを覚えながら、木村は口をつぐんだ。緑地を見下ろしたまま、沈黙した。怒りと腹立たしさで昂揚した気持ちが静まり、やがて得体の知れない不安感が胸の底に溜まってきた。黒深に言われるがままに偽証してしまったことへの後悔が、今更のように押し寄せてきた。
 不意に、耳慣れない音が耳をかすめた。フシュ、フシュ、と空気が漏れるような音。顔を向けると、黒深が痙攣するように口元を振動させていた。笑っているのだと気付くのにしばらく時間がかかった。肩を、背中を震わせ、うつむいたまま顔を歪めている。それは笑いという感情表現の文法から奇妙に逸脱した笑い方だった。
「……いや、すみません。まったく。本当に、あなたは素晴らしい」
 瞼を手の甲でこする。それでも、黒深の表情はまだどこか異様な感じが抜けなかった。
「私、あなたにどう説明しようか、ずっと考えてたんですよ。こんな複雑な話、どう話そうかとずっと悩んでいたんです。それをあなた、あなたは全部推理してしまった。素晴らしい、見事ですよ。あなたは本当に優秀な方だ」
 とまどったまま、木村は黒深の横顔をみつめた。そんな言葉が返ってくるとは予想していなかった。自分を陥れようとした人物、情報漏洩の罪を被せようとした人物、したくもない殺人をするはめにさせた張本人からかけられた言葉とは、思えなかった。
「ひとつ訂正するとすればですね、木村さん、私達は、別に運が悪かったとは思ってません。まあ、小泉がヤられたのは確かに想定外でしたね。あいつが誰かを殺すハメになる事態は想像できましたが、まさかあなたに殺されるとは思ってませんでした。油断があったんでしょうね」
 黒深は自分自身の顔を手の平でわしづかみにすると、ワシャワシャともみほぐすようにした。その仕草は、まるで人相を変えようとでもしているかのように見えた。やがてピタリと手の動きをとめ、指の間から瞳を覗かせた。
「木村さん、四十二階では、モニタの明かりが消えてから小泉が立ち上がったとおっしゃってましたよね? だったら、私達の仕事はもう終わってます。あなたがみつけたときには、小泉は工作を終えた後だったんですよ。それさえわかれば充分です」
「黒深さん……」
 ゆっくりと顔から手を離し、手すりに戻す。
「システムエンジニアならわかるでしょう? 異常事態にどれだけ備えを準備しておくかが成功の決め手です。そうですね、これぐらいは教えてあげましょう。私達の標的は川崎本社のほうです。あちらのサーバールームはけっこうセキュリティが強固でしてね、専用線でつながってるこちらに潜入するほうが楽だったわけです。あなたの会社は部門間でセキュリティポリシーがまったく統一されていない。USBメモリで資料を直渡しなんてね、ハ、******」
 語尾が聞き取れなかった。それは、中国語の発音のように思えた。背中を丸め、黒深が不意にこちらを向く。今まで一度も見たことがない表情がそこにあった。笑っている。確かに微笑んでいる。しかしそれは木村が知っている黒深の笑い方とまったく一致しなかった。粗野で、下卑ていて、暴力的でさえあった。老人の枯れた感じはいっさいなく、今すぐに木村を絞め殺しそうな勢いがあった。
「ねえ、木村さん。私はね、システム開発というものは、この広場みたいなものだと思っていたんです」
 顔を背け、再び黒深は眼下の光景を見下ろす。
「人工的というか、抽象的というか、なんでしょうね、世俗から少し浮き上がった、理想のなにか。美しいなにかだと思っていました。醜いものをすべて排除して、人々の理想を叶えるようなね、そういうなにかだと思っていたんです」
 人間ほど、人工性からかけ離れたものはありませんよね。黒深は小さくつぶやく。
「だが、そうじゃなかった。システムは人間が作ってるんです。何十何百っていう人間が顔つきあわせて、ハッタリとか騙し合いとか保険勘定みたいなものを交わし合いながら作ってる。嘘も方便も一緒くたにしてね、汗水垂らして不平不満を我慢して、いがみ合ったり罵ったりしながら作ってる」
 木村は黙り込んでいる。静かに、黒深の老いた横顔をみつめている。
「なんだって同じですよ、このビルのセキュリティも同じです。カードキーだろうが生体認証だろうが同じことです。そんなものは人間が作ってるんだ。ローテクひとつあれば、騙すのはわけないことです」
 誰かが責任持って考え抜かない限り――。
 唇だけが動いている黒深の横顔。
 ――本当の問題は、なにも解決しないんですよ。
「木村さん、あなたには三つの選択肢がある」
「選択肢?」
「私は、明日の朝までに姿を消します」
 金縛りが解けたように、身体が震えるのを感じた。
「初めから計画していたことです、時期が早まるだけですよ。木村さん、あなたに偽証を頼んだのは、姿を消す準備の時間を稼ぐためです」
「あなたは、僕の人生をメチャクチャにした」
「ええ、そうですよ。まあ、続きを聞きなさい。ひとつは、このまま偽証を続けることです。その場合、恐らく八千草さんが逮捕される可能性がある。あの人は実にタイミング悪くトイレへ行っていた。木村さんにアリバイがあるなら、次に疑われるのは八千草さんです」
 八千草が、デスクトップの壁紙にしていた写真を思い出す。五歳になる息子の写真。
「もうひとつは、自首すること。恐らく、これが最も賢明でしょう。正直にそのまま話しなさい。偽証の分だけ罪になりますが、まあ殺人のほうは正当防衛で済むかもしれない。日本の警察は優秀です、なにか物的証拠をみつけるかもしれませんし、証言の矛盾に気付くかもしれない」
「矛盾?」
「非常階段に私が締め出された時刻よりも、小泉の携帯に私から連絡した時刻のほうが後なんですよ」
 非常階段に締め出されたはずの黒深が携帯を持っていれば、八千草に電話して助けを求めるのが自然だ。しかし、電話をすれば着信音で木村を起こす危険性がある。黒深のカードキーを持った木村は、できれば寝かせたままにしておきたい。このため、黒深はカードキーだけでなく携帯も置き忘れたと証言した。小泉に携帯から電話したのは、非常階段に締め出される直前だと証言していた。
「最後のひとつは?」
「同じように、自首してもらいます。ただし、もう一度、偽証してもらいます。あなたが確実に正当防衛と解釈されるような、かつ私達のことが漏れないような、ね」
「そんな都合のいいデタラメを、誰が考えるんですか?」
「もちろん、私ですよ。いま、いくつか候補を練ってます。警察がつかんでいる情報も、入手する手配を整えました。それをもとに、最善のシナリオを考えます」
「そのシナリオでは、八千草さんが犯人になるんですか?」
「どうしましょうかね、考えますよ。そうそう、この第三の選択には、もうひとつ条件があります」
「なんですか?」
「今後、あなたに、なにか依頼をさせてもらうということです。わかっていると思いますが、後ろ暗い仕事ですよ。それなりに報酬はあります。ただ、現時点で詳細はいっさい明かせませんし、一度選択すれば、後戻りはできません」
「二番目の選択肢、自首して正直に証言する選択肢では、あなたの属する犯罪組織が、明るみにでますよね。黒深さんはそれでいいんですか? 僕に、なにか危害が加えられる可能性は? それは、本当に『最も賢明』な選択ですか?」
「それは、あなたが考えるべきことです。なにが賢明かは、価値観によりますね。それはあなたが判断するしかない。唯一無比の絶対な正解なんてのはありません。さっき、私が警察から情報を入手できるようなことを言いましたが、ハッタリかもしれませんよ? あなたを殺して口をつぐませるなんてことができるなら、そもそもこんな選択肢を提示すること自体ないとは思いませんか? ああ、そうそう、オプションもつけてあげましょう。私を、今のうちに一発殴っておくというオプションです。損も得もしないことを請け合いますよ。どうです?」
 頬をピシピシ自分で叩きながら、黒深は胸ポケットから紙切れをとりだした。手帳から破りとったものらしい。
「今夜中に連絡下さい。午前四時まではつながります」
 紙片を受け取る。受け取りながら、木村はグッと拳を固めた。汗が滲むのを感じた。しかし、次の瞬間にはそれを緩めた。黒深の提案はなにひとつとしてフェアではない。無実の八千草を陥れるか、社会的地位を失うか、薄暗い世界に一生つきまとわれて過ごすか。圧倒的に自分が不利だ。
 それなのに、なぜか心の底から笑い出さずにはいられないような、奇妙な安堵感があった。
「よく考えて。考え抜くことでしか、最適解は得られませんからね。じゃあ、お先に失礼します」
 深く丁寧に頭を下げて、黒深は木村に背を向けた。一度背を向けると、その足取りには緩みがなかった。引き留める言葉、確認しておくべきことを思いつく前に、その姿は駅のほうへと遠ざかっていった。
(クソッ)
 手すりに寄りかかり、緑地帯を見下ろす。行き交う人々の影、偽物のような木々を眺める。
(喰えねえなあ……)
 考え抜くことでしか、最適解は得られない。
 なるほど、その通りだ。
 じゃあ、考えてやる。第四の選択肢を考えてやる。
 八千草に罪を被せず、かといって自分も逮捕されず、黒深のことも明らかにならないような。事件が迷宮入りするような工作はなにをすればいいか、どんな証拠を捏造すればいいか。
 そんなことを考えること自体が、黒深の罠かもしれない。木村をゲームに参加させ、優秀な駒として利用することこそが黒深のたくらみかもしれない。
 しかしいっそ、それでも構わない。文句のつけようがない完璧なシナリオを、叩き付けてやる。シナリオの実現に黒深の組織を利用してやる。あのジジイを徹底的に利用してやる。それだけが唯一の勝利だ。絶対に見返してやる。クソ、ふざけやがって、なにが三つの選択肢だ。誰がそんな手にのるものか。絶対に復讐してやる。
 冷たい風が吹いている。ブルートパーズのように青く透明な夜景を見下ろしながら、木村は顎元に拳をあてると、暗い笑みを浮かべながら静かに思考を深めていった。